tsuyukusa's blog

心理学あたりのあれやこれや

卑弥呼?

メールチェックしてたら、入り込んでいたルネサンス編集部とかやらの記事に東北大学名誉教授が「卑弥呼はいなかった説」を唱えているとのことで、その論拠のひとつは「卑弥呼神社」がないことだという。

 

面白い着眼かもしれず、確かにそうだ。

 

しかし、たぶんめっちゃ間違った話で本当に編集部の捏造ではなく、東北大学の先生だった人が考えたのだろうか? 稚拙すぎて信じられない。

 

暇・・ではないが、今一瞬仕事が一段落した。引っ張り続けて遅れていたひとつの大きな案件をとりあえずメールすることで一歩進めて手放したから。

 

ちょっと昼休みとして書いてみる。簡単な「論駁」を。

 

これは大臣神社や課長神社がないのと同じではないだろうか。

そもそも日本の文書に卑弥呼という人物が記録されているわけではない。

 

中国の魏志倭人伝卑弥呼とあるだけだ。

 

日本通の人、あるいは使いのものに、あなたが使えている人は誰だ? お前たちの代表は誰だ? とか聞かれたら、「王様です」とか「社長です」と答えるのではないか?

まだ文化差もよく知られていないし、異文化コミュニケーションが発達していない時代で、翻訳は慎重にしないと間違いが多々生じる。

 

アメリカなら上役に、Mr.Smithとか場合によってはランチ食べているときにはGeorgeとか呼びかけるかもしれないが日本ではそんなことはしない。アメリカなら兄にTomと呼びかけるだろうが、日本では「兄ちゃん」というかもしれない。

 

名前は大切なものなので、それを用いてあまり呼ばない風習が日本にはある。

千と千尋にあるように、本当の名前を奪うのはその人物を支配することになるという言霊的な思想があるからだ。

 

だから、安土時代の武将は、「信長様」なんて絶対に呼ばない、打ち首だ。

実はこの頃は考え方も同じよびかけ用の「字(あざな)」というものがあった。ただし戦国のころは仮名(けみょう)と言った。信長の仮名は三郎だ。家族は三郎と呼んだだろうが、のちの家来が三郎と呼ぶわけない。呼び名さえも呼び名として使えなくなるのだ。(信長は諱(いみな)という、生前にめったに使われないこともある)

 

だから日本では、「いちろう」ではなく、「課長」「部長」と役職で呼ぶ。

昔なら「右府殿」「筑前の守」とか呼ぶわけだよね。これが日常のふつうのやり方だ。

 

だから古代にたとえ、日本の女王の名前が「さちこ」だったとしても臣下が人に尋ねられて、うちの王は「さちこだよ」なんて答えないわけだよね。

口語でいえば、「ひめさまです」と答えたかも。姫巫女ですよね。

姫御子かもしれない。記録からするとシャーマニズムしていたから巫女といっておかしくない。ただし、この頃は今のような一定の漢字表記というのは定着していなくて、ふだん口から話す日本語を記録するとしたら、ひらがなもないので、適当な当て字で漢字を利用することになる。

 

よく指摘されるように、中華思想ある中国では周辺国を東い伝といって悪い感じだからIMEでなかなか出てこない。とういでんでも変換されない。

それくらい悪い言葉で呼ぶのだ。姫なんていいことばを使わないで卑しいってな字を使うわけだ。だから国内に卑しいなんて字を自分でつくって、「卑弥呼神社」なんて立てるわけがない。そして、姫御子は一般的な敬称だから、のちの古墳時代では、それぞれの王(天皇)の古墳ができたように、まつるのならば、もっと立派な名称で作られるだろう。

 

ここからは少しわたしの飛躍だけれども、それはアマテラス(天照)と関係あるかもしれない。卑弥呼は日巫女かもしれない。なぜ皇祖とされるアマテラスが女性なのかという点も含み、シャーマン的尊崇が実体化されたともいえる。

だからキリスト教で、神、イエスキリスト、精霊が三位一体であるように、素朴な精神のなかで、太陽信仰=太陽=神→その神の御子=巫女=日巫女 という話が十分あり得る。神の意志を伝達する神と一体化したシャーマンである巫女。だから卑弥呼そのものではなく、その「本体」である太陽神、天照大神をまつる神社はいくらでもある。

 

卑弥呼の没年は皆既日食の年と符合しており、当時の太陽信仰のもとでシャーマニズムがあったと考えると、年老いて霊力が衰えたとみられる(それ以外に政治的原因があったかもしれないが)世代交代を望まれていて卑弥呼が、皆既日食パニックより責任をとって?殺害されたというのはそれほど無理のない筋立てだろう。

 

その後、後継者となった台与(とよ、いよ)という女性、新女王があるが、これも「豊」というのは日本を豊葦原と呼ぶように、また歴代天皇の名前のなかにしばしば豊というの含まれているように、縁起がいいのか、支配者一族の通字みたいなものかわからないが、精神的にはすでにそうしたと尊い通字みたいのがあったものと思われ、それがまた(一部の日本)の代表として呼ばれ、その歴史的流れが、「豊前とか豊後」とか

が九州地方の地域名として保持されていることにも表れていると思う。どこかの時点で王族は九州から近畿に移動したと私は考えているが(厳密にいえば初期の大和朝廷はひとつの王族ではない連合政権的要素があると思うが))、実際に豊後、大分には皇祖ともいわれる皇室に関係が深い、今も天皇によって重要な時々にお参りされている宇佐神宮がある。

 

いずれにしても、魏に高官?に問われて、説明したのはまるまる本名を明かしたのではなく、「役職名」「人々からの呼び名」を回答したところをそれを音の対応で悪字をあててあらわしたものが卑弥呼であり、そんな神社は当然日本にはない。これはその魏志倭人伝にある卑弥呼という存在の実在性を否定する証拠には何もなっていない。

名誉教授の文献を読めば実は内容的に同じことを書いているかもしれず、出版社がセンセーショナルに「存在しなかった」と宣伝を打っているだけの可能性もかなりあるから、こういう説明自体すでに当然で、藁人形論法になっているかもしれないが、暇がないから調べられなかった。雑談として格好の材料だから書いてみました。

 

追悼

ちょっと調子の違うことを書くことをごめんなさい。

関西方面の身辺でことがあり、おもうこともありました。

 

2018年1月20日 移動の直前に書いていたブログです。

 

震災の記念館にはグルダイの機会に行ったことがあったが、1月17日あれから初めて東遊園地に行った。なんとなく行かなくてはと思う気持ちがあったのだ。

阪神電車に乗って北に六甲山の連峰を見ながら、三宮に向かう。ふと、「神戸にある大学で毎日この電車にのって西向きに通っていたらどうだったろう・・」と思った。もしかしたら東京に戻ろうと思わなかったかもしれないという考えも頭をよぎった。三宮側に来るのは3回目に過ぎない、この6年で。ずぼらだから出勤方向にしか行かず、どこか寄るとしても通勤途上になってしまいがちだ。この山並みを見ながら歩きはしない。

 

西宮では西にも山が見えることに気づいた。もちろん尼崎で山は見えない。だから、こうして自分にとって当たり前の北を見れば山というのは、芦屋以西のことなのだと改めて気づく。生きる環境から被る影響とはどういうものだろう。でも西に通い、北に山を見て、東遊園地でモニュメントや石版を見ながら、いつまでもここに留まっていたら、すぐさま●●ということもあるかもしれないし、でもそれはそれでよいことのような気もしてしまうから、こうして周囲に多くの迷惑をかけながら、東京に戻ることが自分にとって本当によいのかどうかはあまり自信が持てない。よくないかもしれないけれども、そう決めた、選択したということだ。

 

ごめんなさいということはあまりに簡単すぎる。

どうでもいいことだよと言ってくれる人もいるだろう。

境遇的には何も間違っていない。今の方が楽だ。だから。。?

 

なんとなく、書かざるを得ない気持ちになりました。ひとつの追悼として。

ものごとには許されないこともある。それは忘れない。

たくさんの人を落胆させたのだ。

リアペから(芸能人差別)

(補足、もともと前回のリアペに「消えた差別なんかないと思う」(差別解消は困難)というのがあったので、授業冒頭で「消えたものは知らないから知らないだけ」ということで、芸能人の「河原者差別」について説明し、今は子供たちがあこがれて女優になりたい、俳優になりたいとステキな仕事に思えているが、かつて娘が映画女優になったことで自殺した判事がいたという話が、おまけ話として説明されましたが、それについてのリアペです)わたしの叔母は映画女優ですが、祖父は反対していました。

--reaction paper--

授業の初めに、現在は表立っては見えなくなってきた過去にあった差別として、芸能人差別が挙げられましたが、やっぱり今も芸能人は人権がないがしろにされがちだし、気づきにくいだけでしっかり残っているなと思います。先生もおっしゃったように、政治的な発言をすると叩かれますし、プライベートのことでもすぐに週刊誌に取りざたされて、検閲がしにくいネットのSNSならまだしも新聞やテレビでも大きく報道されたりします。また、芸能界の外では、容姿で判断するなんてもってのほかだ!という風潮があるのに、芸能界ではそれが当たり前だというのも、私は長い間疑問に思っていました。 以前、お笑い芸人が反社会勢力に営業を行ったとして取りざたされた時、ビートたけしさんは、お笑い芸人とは猿回しの猿のようなもので、その猿に真面目な顔して謝罪会見させたり責任負わせたりしちゃダメなんだよ。そういうのは猿回し役の会社側がしないといけない。猿がお客さんに失礼なことしても謝るのは猿使いでしょ。と、こういうことをテレビでおっしゃっていました。普段から、真面目なスピーチも一貫してふざけるようなビートたけしさんだからこそ、信憑性があるように感じましたが、これは、昔の芸能界が本当に差別の対象であって、芸能を志す人はそれをも覚悟していたということなのかな、その覚悟ができていた人が今も生き残って、大御所と呼ばれるようになったのかなと思いました。芸能界では偉い人、一般人も尊敬するような人であっても、猿として差別対象になるし、容姿についてとやかく言われたり(モデルはそれが仕事なのか)一般人とは別次元の厳しさで批判を受けたり、芸能界は、「芸能界」といって一般人の世界と分離させるように、なんだか不思議な別世界のようだなと思いました。 今は、SNSで一般人と芸能人が直接コミュニケーションをとることができたり、芸能人でも政治的な発言をする人が増えてきているから、この不思議な「芸能界」は消えていくのかなとも思いますが、それがいいか悪いかはよくわかりません。ちなみに、よくテレビで会見をしているような、トップの政治家も、芸能人として扱われ始めていないかなと思っています。

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リプライ:

もちろん今の芸能の日本における元祖とでも言える能と狂言においては室町期簡素にしつらえられた神社の境内で奉納されるものであり、大きく非人がかかわっていました。室町期の非人はまだ役割分担的な要素や逆に神と直結しているという信仰から江戸期のようなひどい差別が発生する以前の形態です。地方巡業の営業形態は、かつてNHK大河ドラマ足利尊氏(めずらしく反天皇だった者が主人公で大河一度きりの登場だったが、人物は後醍醐天皇を深く尊崇する人物として描かれていた)で非常に上手に描かれていました。白拍子が尊氏と床をともにして、足利直冬を身ごもる(史実)という役回りが宮沢りえによって演じられていて、兄的存在の柳葉俊郎と共に当時の「芸能集団」の生き様の様子が活写されていました。当然地方巡業は地方を力で牛耳る豪族(≒盗賊、やくざ)の管理のもとに、揚げ銭を支払いながら(所場代)行われており、やくざが伝統的に所場代寄こせと脅すのと同じで、そういったやくざ暴力に保護され結託することで芸能は生きてきたのです。暴力団のパーティに呼ばれて一席演じるのは当たり前で、演歌歌手では今も盛んに行われています。新春の萬歳やめでたい芸(海老一系の傘でものを回す曲芸)や物まねの合間に、原型の萬歳やそこから発展した漫才が行われる。見世物小屋は大阪では定位置をとってちょうど街外れの火葬場がある近所(穢れた場所、境界)に営業され、その発展形態が「千日前」です。火事で焼けて移転した場所に吉本の最初の小屋が立ちます。もののよく見えているビートたけしはこういうことを誰よりもみんなよく知った上で(浅草と吉原など)そうした発言が出てくるのですね。まさに少し前に猿回し芸で一世を風靡した村崎太郎さんは自身が部落出身であることをカミングアウトして語っています。たけしの言うとおり芸能事務所が本来かばい、説明し、近代化の努力をすべき存在なのが、まだそうした悪い世間にがんじがらめで、面子を立てたり、「あいさつ」しないと芸能事務所も「いっぱしに」構えられないというのが業界の体質問題として続いているのでしょう。契約書がないとかも話題になりました。

 

(ひとつ付け加えると差別に「鈍い」日本ではlookismは強くて、反省がないので、当たり前のようにTV局の女性アナウンサーがことごとく美人であったりして、その点、多様性をいくらかでも心がけようとして、またニュースのアンカーは実力次第の一部欧米諸国とは様相をことにしています。専門家とのきったはったのぶっつけトークが必要とされるニュースキャスターは本当に知識があって頭の回転のはやい人でないとうまく務まらないので、顔とか言っている場合じゃないということがあります)

きつく言えば、TV局は採用において堂々と「顔差別」をしているわけです。

 

日心大会、Dr.Rumsey講演をぜひご視聴ください。

相互依存

政治心理学の補足資料に記したことのメモ

 

実のところ、基本、なんでもない者や強者が弱い者を助けたり、配慮、支援することは面倒くさいことです。ネオリベ(新右)の根本は「わがまま」「自己中心」ということですので、自分のためになるようにすぐ思えない面倒事はしたくない。だから税金も制約もなるたけ少なく、人は自由勝手に振る舞えばいいではないかと。面倒くさいことが嫌いな人には受けのよい意見です。
しかし、よく考えてみると、面倒くさければやめていいのであれば、子どもを育てることも面倒であれば、虐待するのも自然となります。誰でも子ども時代があり、一体誰が世話してきたのか? つまり、「人間」というものの本質は実は相互依存的なもので、ケアし、ケアされの一生なのです。ネオリベ(新右)の人が高齢になって仕事できなくなったら若き日の自分の主張から言えば、即刻自殺すべきです。もう役に立たないからです。人間を「役に立つか」「役に立たないか」で見てしまう。そういうものの見方が新右です。相模原で重度障害者を殺害した者の論理はここにあります。どうして間違っているのか。それならば、自分が赤ちゃんの時に親から殺されるべきだからです。赤ちゃんは手間がかかり将来の保証もない、保護しないといけない存在。だけどかの加害者も親は彼を育てました。弱い者の面倒をみて、育て上げました。こういう単純なことに気づいていないのです。大事なのは、そこに「互いに配慮する心」があることです。これがないと殺伐として殺し合いの世の中になってしまって全く居心地が悪いでしょう。いつ寝首をかかれるかわかりません。
 人は自分自身の安寧のためにも、互いに配慮しあう環境が必要です。けがしたときにサポートしてくれる。医師が手当てしてくれる。老いては介護が期待できる。それでわたしたちは自分の命を維持できるのです。自分で米をつくっていない、野菜をつくっていない、畜産していない人は多いでしょう。外食しようがどこで食べようが、自分でない誰かが食べ物の準備をしてくれています。こうした「分業」も人間が相互依存して始めて生きていける基本を表しています。「人の世話になんかなっていない」と言う人は愚か者です。こういった簡単な事実に目を開かれていない、見えていない馬鹿者だからです。
 分業は互いに助かるので、それぞれが「給与」を得ている限り、感謝する必要なんかないと言う人もいます。では、誰も米作りはたいへんだから、しない、やめると言ったら?バスの運転なんかしたくないと言ったら? わたしたちは人の多様性に「感謝」しているのです。
 よくあなたはバスの運転手になりたいと思ってくれましたね。だから今日、わたしは助かっています。ありがとう。NYでも、みんなバスから降りる時に軽く運転手さんに「Thank you! 」と言って降ります。中華料理屋になってくれてありがとう、野菜を育てる人になってくれてありがとう。どんな仕事にやる気がでるか、やろうと思えるか、人さまざまです。実際私自身は土いじりが苦手で、地方くらしや農業は絶対イヤです。いすにすわって家で仕事しているのが大好きです。わたしが生きていられるのは、そんなわたしが近くのスーパーや八百屋で買い物するだけで、奈良の丸なすが買えて、おいしい煮浸しができたり、聖護院大根が売っていておいしい煮物が作れたりする賜です。ついでにいえば、わたし自身はあまり料理は得手ではないので、いつもうまく作ってくれる連れ合いという存在がいるおかげで私の食生活は断然、支えられています。
 これはあえてとりあげていて、世の中で家事労働が軽んじられたり、いさましい仕事や政治での活躍が人間の崇高な働きで、裏で介護や養育などを支えるのが、「裏方」みたいな二流の仕事とされる(つまり伝統世界では、女性が「二流」の存在と扱われる)ことへの劇的な反論をはらむ理論構築だからです。
 世の中は相互依存で成り立っている。これを政治、行政の世界に移し替えると「大きな政府」という構想が正当化されることになります。ここには「ケアの哲学」が背景基盤にあります。

 

 

生きやすい社会とは

私は一応心理学者ではありますが、遠大な目標は「生きやすい社会とは?」を考えることです。厳密にいうと社会自体のサステナビリティや人間の存続よりも「生きやすい社会」に興味があり、生きやすいのは個々の社会成員、人間が感じるものなので、人間を中心においた心理学からのアプローチには大きな意味があると考えています。どんな社会分析も社会の変化を上手に理論立てるものも、中に生きている人間が不幸になるしかなければ意味がないです。近頃リベラルでは動物愛護も大きな流れでさまざまな哲学的議論がなされていますが、私は一線を画して、あくまで「人間が幸せであること」に特化して考えます(別にその分あえて動物を不幸に陥らせることを積極的に目指すことはありません。利害が衝突した場合に人間を優先するということです)。動物尊重は口当たりがいいですが、現存の社会の多くで動物の肉を食べる肉食が広がっていることを考えてとりあえずそれを(積極的ではないが)肯定します。ただ、地球環境の破壊は人間社会の破壊にもなりますから、人間のダメージを減らす観点から環境配慮は不可欠だと考えますし、そのための動植物、生物界の循環システムにも目を配る必要があります。

 

さて、以上は前書きで長くなりました。

 

なぜ改めてこれを書いているかというと、現在、日本だけでない世の中で新型コロナウィルスの拡大防止戦略として、人間の活動の休業とその補償の問題が言われているからです。

 

最も無自覚で愚かなのは、現代を純粋な資本主義と考えることです。しかし、学校教育は不十分なので、かつての戦後体制から、あたかも自由主義陣営vs社会主義陣営みたいな見方を引きずって、ヨーロッパを含む「自由主義陣営」は資本主義だという素朴な誤解があります。今はある意味この2分法は時代遅れであり、ナンセンスです。

ある程度知識がある人は当然これらのナンセンスさから出発していると思います。

 

純粋な資本主義ならば、あくまで資本家は自身の利益を最大化することに関心があり、社会保障をしません。自由に淘汰される社会。それが自由社会です。

だから、今、世界に純粋に「資本主義だけの国」なんてのはなくて、どこもそれを修正した福祉主義的要素、社会保障を国家制度のなかに取り入れています。アメリカが最も自由主義的資本主義的と言われますが、そのアメリカも今、休業保障を打ち出しています。

そういう福祉主義的な政策が皆無であれば、たとえ小売店であろうとも、自分の資本で生業をつくったらそれを生かすもつぶすも自分次第であり、地震だろうが津波であろうが、コロナであろうが、危機管理も自分ですべき「自己責任」になりますから、今、「売り上げがなくなった」と言って困る人がいたとしたら、ふだんから危機管理でこれに備えて十分な預金を有していないのが悪くて、賢い者ならば自転車操業などせずに、半年くらい休んでも食っていけるように万一の資金を保持しておくべきなわけです。資本主義社会で生きるなら当たり前のことですから、わたし自身少しはそう思うところがあります。そこは病気やけがでホームレスになったとかと事情が違い、もし店主が今まで一度も病気入院などしたことがなく健康に働いていたとしたら、全く蓄えがないなら、率直にいってそれはバカだと私は思います。

 横道にそれると日本は現金主義が好きでよく創業に際して銀行から借り入れをしても、しばらくして返せるくらいの金がたまったらすぐ返済してしまう傾向が大きいそうです。「資金」というものの意味を理解していないのです。これまでのもうけ、なけなしの全部を払って創業資金を返済し、そこからは自転車操業。利子を返すのはばかばかしい。いや、そういう商売の仕方こそがばかばかしいでしょう。

 

さて、じゃぁすべて潰れてくださいと私が思っているかというと違います。わたしは社会民主主義者ですから、失業手当や生活保護があるように、こうした災害時には損失についてのある程度の保障があるべきだと思っています。しかし、普段から底堅いのと、基盤がぐらぐらなのでは、一旦ことが起こったときの社会負担がまるで違うのは当然です。だから学ぶ機会や経営術の学習機会をふだんからもっと与えるべきだと思っています。そうすると社会全体が助かるからです。自営業がふるに朝6時(仕入れ)から夜7時まで個人営業で働いている(近所の八百屋さんはそうです)は端的に言って間違っています。人間の労働時間として長時間過ぎますし、家族ともっと楽しめる時間をもつ余裕があった方がいいです。(別に小売りをつぶそうという話ではないです)

 

むしろ大店法を変えた方が間違っていて、大規模スーパーが駅前商店街の活力を奪ったのが、人間の幸せに反していると思うのです。安く物が変えることと、人間らしく暮らせることを天秤にかけたら明らかに後者の方が大切というのがわたしの考えです。

しかし、資本主義は当然前者に行ってしまいますから、全国地方も津々浦々イオンモールがあったり、同じような外食レストランが林立するわけです。アメリカ的風景ですね。ヨーロッパは賢いからそこまでアメリカナイズされないで、調和を意識的に目指しました。その賢さを参考にすべきだと思います。

 

さて、このように考えると、近年盛んに識者が指摘するように資本主義の限界、特にその後期に登場した新自由主義リバタリアン的行き方に限界が見えたと。

グローバル資本は効率と低価格への圧力が世界的にかかりますから、安い地域の労働力を集中投入して生産し、その同じ製品を世界で売るというビジネスモデルになります。地域の特色を消しますし、端的に言って途上国からの労働搾取です。(これへの対抗が近年コーヒー業界などで顕著なフェアトレードということになります)

 

必要な産業には国がある程度補助して(その一環としてこういう災害的危機事態では産業や芸術を国が保護して)、国の中で産業が空洞化しないように手立てを打つ必要があります。まさにここが政府の役割で、昔の市場主義では産業には国は手を出すな、そしてリバタリアンはまさにそれを極限化してと考えるわけですが、それではうまくたち行かないことがこのコロナ禍でも明白になってきたわけです。倒産の死屍累々では国もやっていけません。

 

そこで国の独自性、さらにその国のなかでの地方の独自性をある程度維持する国家的方策が必要で、産業に国が口出しするわけです。日本の勃興期でも殖産興業で国は口を出すのが好きで、産業統制としては今もそうです。しかし、既得権益をもつ者が利得をがめるために口出しして統制するのでは効率が低下するばかりで、賢くありません。単に新規参入をこばむとか敷居を高くするとか、規制を多くするとか。

 

そうではなくて、地方や国の戦略をある程度明確にして(もちろんやりながら修正をかけつつ)、とにかく国内の仕事に賃金保障をすることが重要です。賃金保障でなければ、ベーシックインカムでも構いません。つまりまともに働いている限りは困窮しない、食うに困らない、最低限の文化的生活は保障されていて、不安を抱く必要がないということです。災害だけでなく、個人的なけがや病気、障害、出産、子どもの多さ、これらすべてに対して保障を充実させて不安をなるたけ減らすことです。

 

これによって内需(生活者側の購買意欲や消費)は活発化しますから、そういう社会状態を常に維持するように心を配る、それが政治という役目です。

 

だからわたしの考える、政治は大きな政府であり、そのための資金、配分のもとになる税収は高く設定する必要があり、それは所得税で累進制を高め(今の日本は累進制が超低すぎる)、税収を確保する。前にもzatuで書きましたが、そのためには政府信頼が必要なので透明性と意味のある第3者チェックを、ネットを活用して確保することになります。透明性があって、さらに政策への自己関与、自分の意見が通る見込みを高くもてることで初めて税金は払う気持ちが生まれる(お上に取り立てられるのではなく、自らへの社会サービス享受のため)。これは社会民主主義的世界です。

 

日本の不幸な点はまっとうな社会民主主義政党に欠ける点です。理由はいろいろあってこの記事では論じませんが、左派は社会的権利に関心があって、経済問題を遠ざけ過ぎた。そして経済政策を中心に打ち出すのではなくて、外交・防衛的問題である平和主義にアイデンティティを入れ込みすぎた点が世界各国と違う特色で、もともと思想的に左派だって暴力主義左派がもちろんあり、世界に非武装中立左派なんてありません。日本の安保事情、9条事情から軍備を持たない=左派 という変な連合が成立しました(ちなみに私は武装論です)。

 

それよりも日本ではリベラルあるいは左派が、多くの人が幸せになる経済的分配政策を強調すべきだったと思っています。そして実際世界趨勢はある程度のこの考え方をもつ政府と、それを(ヨーロッパで長かったので)切り詰めて小さくしようというせめぎ合いが現代をつくっているわけです。そうした応酬が政治的に欠けているのが日本です。

 

その不幸によって日本では大部分自民党が政権を担い続け、しかし、こうした危機の状況でも本来の自民党は資本主義的政党ですから、大企業経営陣に味方として振る舞い、また庶民への再分配、所得保障に冷淡なのは当たり前、いまさらホント当たり前なんです。自民に投票してきた人は、いわば保障をしてくれない政府を支えてきたのだから、今保障されないのは当然なんです。もしそれをおかしいと思うなら今後一切、自民党に投票すべきではありません。明白です。庶民に配慮しない政党、それが自民党の党としての性質、本質なのですから。

 

さて、それがわかっている商店主では(特に都市部では)、共産党公明党の支持が大きいです。ふだんこまめに商店を回って、地方自治に意見や要望を生かす。地道にそういう地方政治を地方議員が行っていますから、頼りになると思われています。地盤を共産党公明党は奪い合いますから対立します。中選挙区だった頃はこういう票が、自民意外に公明党共産党の当選者を議会に送っていたわけです。しかし、小選挙区制で国会は死票が多くなり、既得権益者が有利に働くようにすっかりなってしまいました。

 

自民党献金地盤、投票の地盤は大企業や、特定の支持企業(パチンコ店や理髪店)、宗教団体、各種業界団体ですので、そこさえ手当しておけば選挙は勝てて、議員おのおのも自分が安泰と思っている。極端に怖ろしいことを言えば、公明共産支持の商店なんて全部潰れても自民党は痛くもかゆくもない。チェーンの大企業が支持母体ですから、駅前商店街が枯れても困らないのです。そういうことでは、日常生活に潤いを与えている幸せの素になるひとつ、地域の人間関係や支え合いのような社会関係資本が枯れます。自民党アメリカからのグローバル圧力にも弱いですから、地方の小さな店がつぶれてアメリカ資本が大々的に日本を席巻しても平気なのですね。いわば売国主義です。強く言いすぎに思うかもしれませんが、自国の産業を保護せずに、つぶしていく政策に積極的に荷担したとすれば売国といっていいでしょう。アメリカから必要以上に大量に兵器を購入することもそうです。これらは幸せにつながりません。軍備がいらないというわけではなく、合理的に言ってムダが多いということです。

 

ということで、日本社会を生きる成員(それは外国人でも在日の方でも)の幸せのためには、もっと生活者の立場を尊重し、きちんと税金を再配分する政策が不可欠であり、それを社会民主主義と呼ぶなら(国民主義でもなんでもいいけど)、意識的にきちんとそういう社会に対する考え方が広まって、行き渡って、選挙のときに意識して考えてほしいなということです。

 

日頃の宣伝も資金と物量がものを言うので、難しいです。しかし、もっと日本人は堪え忍ばずに貪欲に自己の真の幸せをがめつく求めてほしいです。こういう宣伝の戦略はまだまだ工夫が必要で、運動論的な問題なのだなと思っています。

 

とりあえずここまで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

4月11日付け読売新聞朝刊に取材された記事が掲載されました。新型コロナウィルス問題に伴う差別について話しています。

取材に来られた読売新聞小松記者は、薬害の問題や、HIV問題を扱ってきた構成畑に強い硬派な記者さんでした。すんなりご理解いただけるので、安心していろいろ話すことができました。

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読売新聞2020年4月11日付け朝刊13面(全国版)

 

なぜいつまでも・・・

久しぶりに書く。この間に新型コロナウィルス問題が爆発。

 

政治のことは気になる。

ツイッターで、

自己申告で世帯ごとに10万円 足りなすぎるうえに 本当に必要人には届かない可能性も。 弱っている本当に支援が必要人ほど援助希求が難しいということを政権の人は知らないんだろう。 「生命や弱者に対する共感絶望までの欠如」 ひとりひとりに20万くらい税金返せ。

」(郡司真子)

 

こういう発言というか叫びを聞くと、いつも思う。

だったらなぜこの政権なのかと。

 

以前のZatsu_tenブログでもさんざ書いたことだが、政治と人間の基本的な仕組みがなぜ広く通じないのか。

 

民主主義となったときに、既得権益のある者はどうふるまうか。共感は全くしないが、シミュレーションして想像することが有効だ。この特権を子々孫々維持して伝えたいと思う者たちがある程度出現するだろう。

するとそれを守ろうとするシステムをつくる。

そして、すでに資金があるので、より容易にその意図を実現する政党をつくる。

資金もあるから人も集まってくる。そこに利益維持共同体が生まれる。

 

日本の保守政党はあまり理念がないから、結局、より保守側というのは、この既得権益維持集団となる可能性が高い。必然的に産業界、特に従来の大企業など経団連系の支持と人的交流をもつことになる。

古い方法では、資金提供と利益供与という一体化した政策の推進となる。

 

つまり、原理的にこのタイプの保守政党は、そもそも庶民への共感よりも、既得権益の利益代表となる。だから、庶民がこうした政党を支持すること自体が大きな矛盾となるのだ。「共感のなさ」は構造的な問題で、今はさらに首相たちの個人的資質もそれを助長しているかもしれないが、所詮そもそも庶民の苦しみに対処する政党ではない。それが設立の趣旨のようなもの、存在意義なのだからいまさら驚くのがおかしいってものだ。

 

それでも戦後ここまで常に、政権を得られてきたのは、庶民にまでそれにたかる構造があったからだろう。地方議員や地方の企業で、補助金を得たいもの、それで得ができるものが寄ってくる。悲しいことにだいたい金があるところには大勢寄ってくる人がいるものらしい。

 

これらが地方の保守地盤を形成し、というかそうした保守地盤を基礎にして、積み上げた要望の集積体のように、保守政党が形成され、発達していくのだろうが。

 

労使や組合というと、今の日本ではすぐ古いと退けられるが、実際、マルクスの描いたその構図は全く衰えず、健全に世界を説明している。理論の問題よりも、運動の失敗の方が重大だ。

 

今では、本来の意味の資本家ではないが、経営陣としてある者と、一介の労働者に過ぎないものの分断(入れ替わりはあるが)が問題。企業が利益をあげたとき、どの程度を内部留保するか役員給与をあげるか、社員の給与をあげるか、相変わらずこのシンプルで絶対的に重要な問題は、労使関係で考えるしかない。しかしほぼ労働組合の力は弱体化した。

 

円安で株高に誘導しても、大きな証券資産をもっている者しか豊かにならない。給与アップしないといつまでも庶民層には利益が行き届かない。このシンプルな対立の経営側に政権は今あるわけだから。

 

だから、庶民側に立つ政党を育て、大切にし、少々失敗しても育成を図ることが最終的に庶民層の利益になるはずなのに、結局ろくに一個もそれを日本ではつくることに成功しなかった。一度の民主党政権。それでもマシだったことは、今の新型コロナ問題であぶり出されている。少なくともまじめに取り組むのと真剣さに欠く取り組み、どうあっても利益団体との共栄に目が奪われる政権のあり方だと明白に「どちらがマシだったのか」の答えは出ている。

 

なぜそれでも多くの人は現政権党に票を入れるのか。実際多くではなく、完全比例制にすればもっと拮抗するはずだが、小選挙区制によって莫大な差になっていることはわかる。それにしても、・・・といつも思うが、何のための票を投じているのか。そして、また棄権も多いわけだから、政権選択を放棄している。

 

新型コロナ問題など危機が発生したときだけ、不祥事が生じたときだけ、思い出したように、単発的批難が出てはくるが、しばらくしては忘れ・・・の繰り返しだ。面倒はきらいでしょうか。自分がより幸せになるよりも、不幸の秩序の方が好きでしょうか。常にそれは問うていきたい。