tsuyukusa's blog

心理学あたりのあれやこれや

2017年東大研究室40周年記念講演

最近、トークをすることも多くなってきたので、話の前提に、こうした問題意識持っていますということで、2017年在外研究前の3月に東大社会心理学研究室で話した原稿を掲載しておきます。 誰も転載などしないと思いますが、発言の著作権にはご留意ください。

 

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     東京大学社会心理学研究室40周年の集い       017/03/11

 

             社会とこころをつなぐ

 

  

 特定の国からの入国禁止措置をとったアメリカの新大統領トランプのことを考えると、世界規模でこうした措置への反対が唱えられているにも拘わらず、アメリカ国内での世論調査は賛成49%vs反対41%と言われる。細かな調査の妥当性の問題もあろうが、ある程度の分量のアメリカの人々がこうした政策、措置に賛同している事実は注目に値するだろう。

 そもそもアメリカメディアが(日本のメディアも)トランプ当選を予測しなかったということにもあるように、実際の「民意」とは何かも問われる。票数はヒラリー・クリントンの方が多かったが、しかしそれでも拮抗するほどの支持がトランプに寄せられていたのだ。話者はトランプを支持しない。しかし、ここで何が起こっているのかを研究者たちは先んじて理解する務めがあるだろう。社会の解析を素人に負けていては専門家の存在価値はない。もっとも世論調査の分析的な方策以外に社会心理学という領域が切り込んでいく方法をもつかどうかは分からないし、こうしたことはいわばマクロの領域であるから、実験社会心理学が専門である話者が首を突っ込んで論じるのはお門違いで全くもって僭越なことかもしれない。

 

 しかし、実は現在、ミクロとマクロとを有機的につなげていくということこそ、社会心理学の重要な方向性ではないかと考えられる。そういう話を本日できたらと思っています。

 そもそもわたし個人のことから少し語らせていただきますと、もともと心理学を学ぼうと思ったのは、「世の中をよくしたい」という考えからでした。全くそうした試みには個人的に現時点では失敗したとも言えますが、「社会」という大きなシステムに関心がもともとあったということです。社会をよくしたくて心理学という志向性からして、ミクロからマクロへという方向を目指したものでした。

 さて、話を戻しますと、識者も指摘しておりますように、トランプの大統領当選は、知識人層の周辺の人々と投票者、支持者が解離していたという現状があります。失業した白人労働者などかつての中間層から職を失い、生活的にいわば転落していった者たち、苦しんでいる者たち、しかもそれはかつて中間層だったアメリカ白人労働者です。(もちろん階層的にはもっと苦しんでいる底辺層が別にいます)

 議員もメディアも大学人も評論家もいわば中の上、上の下の社会階層においてまんなかより上の方です。思い切って言ってしまえば上層かもしれない。そういう人たちの視野のなかからこうした白人労働者がこぼれおち、かつては投票にもいかずにサイレントマジョリティーとして黙って耐えていた。彼、彼女らにとって政治は遠いもので、まさにワシントンはよその世界だったのです。

 今回の入国禁止、排斥も同じ事を繰り返しているという構造が透けて見えます。アメリカの良識を持つ人々、大学人、大学生含め、そうした人たちは平等、自由という重要な旗頭をアメリカという国家が降ろすなんていうことについて、もう信じられないとか、あり得ないという感想を抱くでしょう。国際的に政治に関わる人、国際機関で働く人々みんな多くがそうでしょう。

 しかし、トランプを支持している人にとっては、そんなことは関係ない。自分の職が奪われてきたと思っていたりする。移民がアメリカの社会構造を変え、自分たちの毎日の生活を不安定にしてしまっていると信じている。この分断、解離した構造、考えの決定的な違いの背景を学術的にも分析すべきであるとわたしは考えますし、実際、ここにいらっしゃる幾人の方達がすでに研究としても手を付けていらっしゃるものと思います。

 実証データを考える前にというか、本日それはないので、理論的な考察を行います。

 まず、第1に、そもそも国家と自由の関係について。これは永遠に変わらないものでしょうか? アメリカはその独立の経緯からして、イギリス支配からの自由と言うことで、宗主国との関係から、○○からの自由、抑圧からの自由、解放ということで、国家設立時から自由を大きな価値としてきました。初めからです。徐々に「自由」を獲得していったヨーロッパの深い歴史とは違います。いわば人類の進歩のようなものをとても大急ぎでおこなってしまった。フランス革命に先んじて、アメリカ独立は生じ、フランス革命が大混乱を招いたのに対し、アメリカもシビルウォーなどはありましたが、政権の形自体が共和制や独裁や王政や帝政などコロコロ変化したわけではありません。

 自由とは解放だったのです。今それではアメリカは何から解放されるのでしょうか? 旗頭、理念としては人権の尊重、マイノリティの尊重、機会の平等、実質がどうなっているかはさておいても言論の中、理想の中では誰しもが、いや多くの人がついこの間まで、アメリカはこうした自由と民主主義の守護者として振る舞い、世界に民主主義を浸透させるちょっとおせっかいな民主化という旗印で中東などにも関与していったわけですよね。アメリカは自由と民主主義の代表だったわけです。

 しかし、「自由」とは何でしょう。まさに「自由とは何か」という本を著した保守思想家の(わたし自身とはちょっと立場が異なりますが)佐伯啓思先生は、次のような分析をしています。現代の自由は結局「個人」を出発点にしている。植民地であれば、宗主国vs我が国の独立ということになり、国家という集団自体が自由を獲得するという話になる。アメリカも建国時はそうでした。

 しかし、今そのように他の集団から支配を受けているわけではない。日常にある自由は何々する自由で、自分のやりたいことを人からとやかく言われないで勝手にできるということですね。基本的人権として個人の自由は絶対化される。何を信じるか、信教の自由、言論の自由、プライバシーの不可侵・・・。日本でもよく言われます。「人に迷惑さえかけなければ何でもしていいだろう」と。ここから議論ができるというわけです。

 つまり、ざっくりと申しますと、そうした個人の自由を絶対視する立場と、何かそうではないコミュニティと申しますか、「人と人との関係」にもっと配慮したあり方です。これは文化の違いでもあります。伝統の違いでもありましょう。

 何も昔のように、「イエ」を守るために家父長制のようなものが個人の人生を圧迫してよいと言っているわけでは毛頭ありません。重要なのはバランスでしょう。何かを大切だと思ってしまうと、それと対立しそうな気配を感じるものには全面的に対決、廃してしまう。それはもう少し落ち着いて客観的に考えてみたら、思慮をしてみたらという提案です。

 社会的なものの代表は「規範」でしょう。一般に規範は自由と対立すると思われている。佐伯先生もそれは違うのではないかと記しています。自発的に規範をみんなで立ち上げ、構成して、みんなで自発的に規範を守ろうとする。そうした姿もありますし、まさにそうでないと規範自体うまく社会のなかで働きません。それは意味のない校則でスカート股下何cmとか、ソックスは白か紺といったナンセンスなものとは違い、電車の床に座らないとか、日本では大声で電車のなかで携帯電話しないとか、お年寄りに席を譲ろうとかのことです。こうしたことと「自由」とはどういった関係にあるのかを考えなくてはなりません。

 社会を運営し、そこにいる人々ひとりひとりが幸せであるということに対して、必ずしも「自由」ひとつが決定的な処方箋なんかではないということを冷静に考えてみる。

 さて、わたしは現在モラリティの研究もしたりしているのですが、今、Haidtというアメリカの研究者が有名です。モラルを構成するものとして5つや6つの基本的な柱を指摘しています。(スライド:モラル表)

 そして日本でも翻訳されている著書として一般向けに、『社会はなぜ左と右にわかれるのか? リベラルはなぜ勝てないのか?』という本があります(スライド示す)。

告白しますと、こちらにお世話になる前の・・わたし教育心理学科の出身なのですが、リベラルな教育学部でわたしはかつていわゆるサヨクにシンパシーを持っており、遅れてきた世代としてまさに不毛な挫折、うまくいかなさを多く味わったものでした。1980年代にリサイクル運動を行い、親からは「ゴミ屋になるのはやめろ」と言われ、リサイクルショップなどもまだ社会の側の理解が薄く、かろうじて古着屋みたいなものがあったというそういう時代です。ガレージセールなどなく、フリーマーケットは少し代々木公園などで行われておりましが、こうした時代に東京で初めてダイエーの屋上でワゴン車を入れてガレージセールをやりました。その運営をしていたのです。

 自分たちは正しいことをしている。どう考えても理念的には正しい。でも企業に説いて回っても理解されない。今なら当たり前になっているリサイクルペーパーの使用や缶の分別回収、エコなシステムなどは産業の発展を阻むもののように、まさに企業の自由な活動を阻む、縛るものだと見られていました。まさに今トランプが環境への影響を無視して、石油、石炭の価値を見直して、CO2排出規制なども反故にしようとしているのと同じ態度でした。

 「正しいのに勝てない」 これがまさに共通のテーマなのです。わたしもずっと分からなかった。それは賛同しない人たちの物わかりが悪いか、理解力が足りないとか・・・そう考えるしかありませんでした。

 公正や平等の原理というもののあり方、成り立ちはやはりそうした側面があるようです。頭で考える正しい原理なんですね。Haidtが明らかにしたのは、ちょっと前のことになってしまいますが、アメリカにおいて、公正とケアを決定的に重視しているのが、民主党支持者であると。政党支持、社会の理想についての考え方の違いによってどの道徳メニューを重要と考えるかが異なってくるのです。共和党支持者、保守の方では、それ以外にも権威、忠誠や神聖などこの基盤5つともレパートリーとしてそこそこ重視するといいます。親を敬えとか国家に忠誠心を持てとか、あるいは移民排斥というのはもちろんけがれ、清浄さの尊重という要素があることが知られていますし、日本でもこういうことをおっしゃる政治家の一群がいらっしゃいますよね。

 しかし、一方で、「仲間を裏切らない」とか自分の所属集団に誇りを持つとか、小中高の教師-教えてくれる存在に適切な敬意を払うとか、先日もモンスターペイシャント(患者さん)のことをテレビで取り上げておりましたが、治療してくれる医師に対してまぁもちろん今では、単に従うとかではなく、ある側面では対等に話をした上でのことですけれども、それでもなお専門家、治療者として適切に敬意を払うなどといった、こうした要素が決定的に崩れてくるとそれはどうでしょう。それは、生きやすい、みんなが生きていきやすい、生活しやすい幸せな社会状況と言えるでしょうか?

 自由と秩序はきっとバランスが必要なのでしょう。そう思いませんか? しかし一方、秩序を優先しようと安易に多数の意見を通してしまうと、とてもマイノリティが生きにくい社会になってしまいます。マジョリティの意見が「社会の常識だ」、「秩序のもとだ」と社会規範を占有してしまうとたいへんなことになります。マイノリティについては、そうしたマジョリティの圧政からの解放、自由の獲得が真剣な課題になります、今現在もマイノリティにとってはそうした側面がこの現代日本社会のなかではたくさんたくさんあり、大きな問題になっていると思います。

 何かを実現するプロセスとして、行儀良くはやっていられないから、圧政を駆逐するために秩序は放逐し、まず自由を実現する。そうした考え方もとれるでしょう。しかし、日本はもう革命の時代ではないですし、強烈に暴力的に社会改革するという方法はすでに多くの人にいやがられているのではないでしょうか。若者も過剰なくらい争いを好みません。

これもピンカーが描く『暴力の人類史』の現在進行形で今も進行している姿とも言えます。昔より「乱暴なことが嫌いだ」というのは悪いことではないでしょう。

 するとわたしたちは、自由と規範のバランスを絶妙にとっていく智恵を日々形成していかなくてはならないでしょう。多くの思想家が規範というものの扱いに行き詰まって立ち往生しています。規範や秩序はどこか天から降ってこないといけないと思っている。それは欧米では基本はキリスト教ですから、なんだかんだいって深堀りすれば、彼らの究極的な規範や正しいこと、善いこと、善は神の教えに還元され、帰って行くからです。人間が生み出したものではなく、神によるもの。「神」という概念装置を用いて一旦人界を越えた上空に引っ張り上げて、それを神の教えとして地に降り注ぐ。こうした手続きをとらないと誰も「同じ規範」をあがめたりしない。

 そう、文化によって規範は違うかもしれないですよね。欧米の価値観、規範をムスリム、中東地域に普遍化させることは本当に正しいことなのでしょうか。本来は彼らのことは彼らが決めるという状態にできればよかった。けれども、歴史的にヨーロッパはいろいろすでに手を出してしまって、中東社会をかき回してしまった。そのつけが回っているわけですね。放り出すことが正しいのか無責任なのか、大いに議論があるところでしょう。

 ある意味、Haidtの議論は救いの一手です。5つ6つの基盤、メニューについては学会では議論が多く、全く合意に至っているものではありません。それよりも重要な業績は、こうしたモラリティがひとつ自動的に、直観的なプロセスによって走っているんだという指摘でした。つまり、さかのぼればホモ・サピエンスの遺伝子プログラミングに一部これが入っているといういわば福音です。いやなものはいや、だめなものはだめ。兄弟のセックスとか、倒れて苦しんでいる子どもを見捨てることや娘が強姦されること。だめです。これは理論的にもある程度言えますが、理論だから冷静な理屈だからということではなく、直観的にすでにわたしたちはそれはマズイ!!ともう不可避的にそう思っちゃうわけです。もちろんサイコパスとかいて人口の100%ではないにしても多くの人にとってはそれは自明な感じを与えるわけですね。そこに福音があります。

 正しいことは理性の妄想ではなく、何か基盤があるかもしれないのだ。こうしたことを心理学が真剣に探っていくことで、うまく人間の性向を生かしたような規範や制度設計があり得るのではないか。亀田先生はもっともっとその先のところまで、エレガントな実験で院生たちといっしょにいろいろ取り組んでおられてがんがん成果を出されておられます。わたしはは全くそういったことができておりませんが、そういうことも思いまして、全く不勉強なわたくしもトランプ政権下のニューヨークに行ってひとつ身をもって考えて見ようと、空気も吸いながら考えて見ようと、4月からペンシルベニア、そしてニューヨーク大学に客員研究員として1年間滞在して、よく考えてくるつもりです。わたしの場合は、おまけを申しますと、さらに日本的というか、人と人との自由をそぐ日本的装置として「呪い」とか、「言霊」とか「怨霊」とか考えたいと最近すっかり妙なことを考えておりますが、アメリカと日本、両方の文化を学びながら思索を深めて参りたいと思います。

 在外研究の教授会のあいさつではありませんから、変な方向に話がまとまっておりますが、ひとことで申しますと、道徳の自動性、善の無意識的基盤、そういったテーマも社会心理学の今!として、海外でもかなり流行っている分野でありまして、日本でも取り組む人たちが増えております。実のところ、こちらの唐沢かおり先生もゼミ生とモラリティや自由意志について取り組んでおられます。現研究室スタッフのみなさまとも機会ありましたら、そういうコラボとか、シンポでご一緒するとか、そういったことが可能となるくらいの実証的データの研究成果を今後出していけたらと思っております。

 わたしの妄想、妄言のようなお話にこれだけの立派な参加者の方々にお付き合いさせてしまい、本当に申し訳なさでいっぱいで、もっといい話もあり得たのではないかと、おとなしく自分の専門の潜在測定の話でもしたらよかったのではと、思いっきり自分でも後悔するでしょうけれども、お付き合いいただきましたことに深く深く感謝申し上げまして、ぜひ、懇親会で「おまえの言っていることは根本的に間違っている」とか、関西流に言いますと「アホかおまえは」みたいに自由にご批判、叱咤していただければと思います。

 人間関係が不器用ですので、講演よりも却って個人的なお話、会話の方が詰まりまくりの迷走をするかもしれませんが、どうぞご交誼のほど、よろしくお願い申し上げます。

ありがとうございました。

 

 

 

 トランプの話

 

こうしたリベラルの欠点、前の構図をよく理解していたら、一気に逆転的に負けを喫するのではなく、どういう慎重な手順で理想をこの社会に実現していけばいいのか、もっとていねいに考えられるのではないでしょうか。理解しないもの、賛同しないものがばかなのでは決してなく、そこにはそこに自然な無意識の自動的な声や衝動があるのです。

 衝動は常にばっさりと理性の刀で切って捨てはできないのです。理性で切れると思うのは、傲慢かもしれません。わたしにもようやく分かってきました。仕組みがわかりきらない事柄についての適切な畏れ、そこはていねいに取り扱う、そういった自分でも苦手なやり口を意識的に考えていかねばならない。自動性を意識的に考えていく。こうした方向によって突破できる何かがあるのではないかと思っています。そしてまた正しさの多元主義をどう扱うか。不干渉で尊重し合えるというのは究極の情勢では成り立ちません。また個人レベルの自由だけで社会は成立せず、ある点においてはミクロマクロ、政治体制はひとつしか成立しませんし、ひとつの組織に複数のシステムを組み込むことは無理と言わずともたいへん難しい。集合レベルで「同じこと」を甘受しないといけないとき、個人の自由という単位はどうなるのか。いろいろ考えるべきことは多いように思います。