tsuyukusa's blog

心理学あたりのあれやこれや

相互依存

政治心理学の補足資料に記したことのメモ

 

実のところ、基本、なんでもない者や強者が弱い者を助けたり、配慮、支援することは面倒くさいことです。ネオリベ(新右)の根本は「わがまま」「自己中心」ということですので、自分のためになるようにすぐ思えない面倒事はしたくない。だから税金も制約もなるたけ少なく、人は自由勝手に振る舞えばいいではないかと。面倒くさいことが嫌いな人には受けのよい意見です。
しかし、よく考えてみると、面倒くさければやめていいのであれば、子どもを育てることも面倒であれば、虐待するのも自然となります。誰でも子ども時代があり、一体誰が世話してきたのか? つまり、「人間」というものの本質は実は相互依存的なもので、ケアし、ケアされの一生なのです。ネオリベ(新右)の人が高齢になって仕事できなくなったら若き日の自分の主張から言えば、即刻自殺すべきです。もう役に立たないからです。人間を「役に立つか」「役に立たないか」で見てしまう。そういうものの見方が新右です。相模原で重度障害者を殺害した者の論理はここにあります。どうして間違っているのか。それならば、自分が赤ちゃんの時に親から殺されるべきだからです。赤ちゃんは手間がかかり将来の保証もない、保護しないといけない存在。だけどかの加害者も親は彼を育てました。弱い者の面倒をみて、育て上げました。こういう単純なことに気づいていないのです。大事なのは、そこに「互いに配慮する心」があることです。これがないと殺伐として殺し合いの世の中になってしまって全く居心地が悪いでしょう。いつ寝首をかかれるかわかりません。
 人は自分自身の安寧のためにも、互いに配慮しあう環境が必要です。けがしたときにサポートしてくれる。医師が手当てしてくれる。老いては介護が期待できる。それでわたしたちは自分の命を維持できるのです。自分で米をつくっていない、野菜をつくっていない、畜産していない人は多いでしょう。外食しようがどこで食べようが、自分でない誰かが食べ物の準備をしてくれています。こうした「分業」も人間が相互依存して始めて生きていける基本を表しています。「人の世話になんかなっていない」と言う人は愚か者です。こういった簡単な事実に目を開かれていない、見えていない馬鹿者だからです。
 分業は互いに助かるので、それぞれが「給与」を得ている限り、感謝する必要なんかないと言う人もいます。では、誰も米作りはたいへんだから、しない、やめると言ったら?バスの運転なんかしたくないと言ったら? わたしたちは人の多様性に「感謝」しているのです。
 よくあなたはバスの運転手になりたいと思ってくれましたね。だから今日、わたしは助かっています。ありがとう。NYでも、みんなバスから降りる時に軽く運転手さんに「Thank you! 」と言って降ります。中華料理屋になってくれてありがとう、野菜を育てる人になってくれてありがとう。どんな仕事にやる気がでるか、やろうと思えるか、人さまざまです。実際私自身は土いじりが苦手で、地方くらしや農業は絶対イヤです。いすにすわって家で仕事しているのが大好きです。わたしが生きていられるのは、そんなわたしが近くのスーパーや八百屋で買い物するだけで、奈良の丸なすが買えて、おいしい煮浸しができたり、聖護院大根が売っていておいしい煮物が作れたりする賜です。ついでにいえば、わたし自身はあまり料理は得手ではないので、いつもうまく作ってくれる連れ合いという存在がいるおかげで私の食生活は断然、支えられています。
 これはあえてとりあげていて、世の中で家事労働が軽んじられたり、いさましい仕事や政治での活躍が人間の崇高な働きで、裏で介護や養育などを支えるのが、「裏方」みたいな二流の仕事とされる(つまり伝統世界では、女性が「二流」の存在と扱われる)ことへの劇的な反論をはらむ理論構築だからです。
 世の中は相互依存で成り立っている。これを政治、行政の世界に移し替えると「大きな政府」という構想が正当化されることになります。ここには「ケアの哲学」が背景基盤にあります。