tsuyukusa's blog

心理学あたりのあれやこれや

リアペから(芸能人差別)

(補足、もともと前回のリアペに「消えた差別なんかないと思う」(差別解消は困難)というのがあったので、授業冒頭で「消えたものは知らないから知らないだけ」ということで、芸能人の「河原者差別」について説明し、今は子供たちがあこがれて女優になりたい、俳優になりたいとステキな仕事に思えているが、かつて娘が映画女優になったことで自殺した判事がいたという話が、おまけ話として説明されましたが、それについてのリアペです)わたしの叔母は映画女優ですが、祖父は反対していました。

--reaction paper--

授業の初めに、現在は表立っては見えなくなってきた過去にあった差別として、芸能人差別が挙げられましたが、やっぱり今も芸能人は人権がないがしろにされがちだし、気づきにくいだけでしっかり残っているなと思います。先生もおっしゃったように、政治的な発言をすると叩かれますし、プライベートのことでもすぐに週刊誌に取りざたされて、検閲がしにくいネットのSNSならまだしも新聞やテレビでも大きく報道されたりします。また、芸能界の外では、容姿で判断するなんてもってのほかだ!という風潮があるのに、芸能界ではそれが当たり前だというのも、私は長い間疑問に思っていました。 以前、お笑い芸人が反社会勢力に営業を行ったとして取りざたされた時、ビートたけしさんは、お笑い芸人とは猿回しの猿のようなもので、その猿に真面目な顔して謝罪会見させたり責任負わせたりしちゃダメなんだよ。そういうのは猿回し役の会社側がしないといけない。猿がお客さんに失礼なことしても謝るのは猿使いでしょ。と、こういうことをテレビでおっしゃっていました。普段から、真面目なスピーチも一貫してふざけるようなビートたけしさんだからこそ、信憑性があるように感じましたが、これは、昔の芸能界が本当に差別の対象であって、芸能を志す人はそれをも覚悟していたということなのかな、その覚悟ができていた人が今も生き残って、大御所と呼ばれるようになったのかなと思いました。芸能界では偉い人、一般人も尊敬するような人であっても、猿として差別対象になるし、容姿についてとやかく言われたり(モデルはそれが仕事なのか)一般人とは別次元の厳しさで批判を受けたり、芸能界は、「芸能界」といって一般人の世界と分離させるように、なんだか不思議な別世界のようだなと思いました。 今は、SNSで一般人と芸能人が直接コミュニケーションをとることができたり、芸能人でも政治的な発言をする人が増えてきているから、この不思議な「芸能界」は消えていくのかなとも思いますが、それがいいか悪いかはよくわかりません。ちなみに、よくテレビで会見をしているような、トップの政治家も、芸能人として扱われ始めていないかなと思っています。

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リプライ:

もちろん今の芸能の日本における元祖とでも言える能と狂言においては室町期簡素にしつらえられた神社の境内で奉納されるものであり、大きく非人がかかわっていました。室町期の非人はまだ役割分担的な要素や逆に神と直結しているという信仰から江戸期のようなひどい差別が発生する以前の形態です。地方巡業の営業形態は、かつてNHK大河ドラマ足利尊氏(めずらしく反天皇だった者が主人公で大河一度きりの登場だったが、人物は後醍醐天皇を深く尊崇する人物として描かれていた)で非常に上手に描かれていました。白拍子が尊氏と床をともにして、足利直冬を身ごもる(史実)という役回りが宮沢りえによって演じられていて、兄的存在の柳葉俊郎と共に当時の「芸能集団」の生き様の様子が活写されていました。当然地方巡業は地方を力で牛耳る豪族(≒盗賊、やくざ)の管理のもとに、揚げ銭を支払いながら(所場代)行われており、やくざが伝統的に所場代寄こせと脅すのと同じで、そういったやくざ暴力に保護され結託することで芸能は生きてきたのです。暴力団のパーティに呼ばれて一席演じるのは当たり前で、演歌歌手では今も盛んに行われています。新春の萬歳やめでたい芸(海老一系の傘でものを回す曲芸)や物まねの合間に、原型の萬歳やそこから発展した漫才が行われる。見世物小屋は大阪では定位置をとってちょうど街外れの火葬場がある近所(穢れた場所、境界)に営業され、その発展形態が「千日前」です。火事で焼けて移転した場所に吉本の最初の小屋が立ちます。もののよく見えているビートたけしはこういうことを誰よりもみんなよく知った上で(浅草と吉原など)そうした発言が出てくるのですね。まさに少し前に猿回し芸で一世を風靡した村崎太郎さんは自身が部落出身であることをカミングアウトして語っています。たけしの言うとおり芸能事務所が本来かばい、説明し、近代化の努力をすべき存在なのが、まだそうした悪い世間にがんじがらめで、面子を立てたり、「あいさつ」しないと芸能事務所も「いっぱしに」構えられないというのが業界の体質問題として続いているのでしょう。契約書がないとかも話題になりました。

 

(ひとつ付け加えると差別に「鈍い」日本ではlookismは強くて、反省がないので、当たり前のようにTV局の女性アナウンサーがことごとく美人であったりして、その点、多様性をいくらかでも心がけようとして、またニュースのアンカーは実力次第の一部欧米諸国とは様相をことにしています。専門家とのきったはったのぶっつけトークが必要とされるニュースキャスターは本当に知識があって頭の回転のはやい人でないとうまく務まらないので、顔とか言っている場合じゃないということがあります)

きつく言えば、TV局は採用において堂々と「顔差別」をしているわけです。

 

日心大会、Dr.Rumsey講演をぜひご視聴ください。