追悼
ちょっと調子の違うことを書くことをごめんなさい。
関西方面の身辺でことがあり、おもうこともありました。
2018年1月20日 移動の直前に書いていたブログです。
震災の記念館にはグルダイの機会に行ったことがあったが、1月17日あれから初めて東遊園地に行った。なんとなく行かなくてはと思う気持ちがあったのだ。
阪神電車に乗って北に六甲山の連峰を見ながら、三宮に向かう。ふと、「神戸にある大学で毎日この電車にのって西向きに通っていたらどうだったろう・・」と思った。もしかしたら東京に戻ろうと思わなかったかもしれないという考えも頭をよぎった。三宮側に来るのは3回目に過ぎない、この6年で。ずぼらだから出勤方向にしか行かず、どこか寄るとしても通勤途上になってしまいがちだ。この山並みを見ながら歩きはしない。
西宮では西にも山が見えることに気づいた。もちろん尼崎で山は見えない。だから、こうして自分にとって当たり前の北を見れば山というのは、芦屋以西のことなのだと改めて気づく。生きる環境から被る影響とはどういうものだろう。でも西に通い、北に山を見て、東遊園地でモニュメントや石版を見ながら、いつまでもここに留まっていたら、すぐさま●●ということもあるかもしれないし、でもそれはそれでよいことのような気もしてしまうから、こうして周囲に多くの迷惑をかけながら、東京に戻ることが自分にとって本当によいのかどうかはあまり自信が持てない。よくないかもしれないけれども、そう決めた、選択したということだ。
ごめんなさいということはあまりに簡単すぎる。
どうでもいいことだよと言ってくれる人もいるだろう。
境遇的には何も間違っていない。今の方が楽だ。だから。。?
なんとなく、書かざるを得ない気持ちになりました。ひとつの追悼として。
ものごとには許されないこともある。それは忘れない。
たくさんの人を落胆させたのだ。