tsuyukusa's blog

心理学あたりのあれやこれや

生きやすい社会とは

私は一応心理学者ではありますが、遠大な目標は「生きやすい社会とは?」を考えることです。厳密にいうと社会自体のサステナビリティや人間の存続よりも「生きやすい社会」に興味があり、生きやすいのは個々の社会成員、人間が感じるものなので、人間を中心においた心理学からのアプローチには大きな意味があると考えています。どんな社会分析も社会の変化を上手に理論立てるものも、中に生きている人間が不幸になるしかなければ意味がないです。近頃リベラルでは動物愛護も大きな流れでさまざまな哲学的議論がなされていますが、私は一線を画して、あくまで「人間が幸せであること」に特化して考えます(別にその分あえて動物を不幸に陥らせることを積極的に目指すことはありません。利害が衝突した場合に人間を優先するということです)。動物尊重は口当たりがいいですが、現存の社会の多くで動物の肉を食べる肉食が広がっていることを考えてとりあえずそれを(積極的ではないが)肯定します。ただ、地球環境の破壊は人間社会の破壊にもなりますから、人間のダメージを減らす観点から環境配慮は不可欠だと考えますし、そのための動植物、生物界の循環システムにも目を配る必要があります。

 

さて、以上は前書きで長くなりました。

 

なぜ改めてこれを書いているかというと、現在、日本だけでない世の中で新型コロナウィルスの拡大防止戦略として、人間の活動の休業とその補償の問題が言われているからです。

 

最も無自覚で愚かなのは、現代を純粋な資本主義と考えることです。しかし、学校教育は不十分なので、かつての戦後体制から、あたかも自由主義陣営vs社会主義陣営みたいな見方を引きずって、ヨーロッパを含む「自由主義陣営」は資本主義だという素朴な誤解があります。今はある意味この2分法は時代遅れであり、ナンセンスです。

ある程度知識がある人は当然これらのナンセンスさから出発していると思います。

 

純粋な資本主義ならば、あくまで資本家は自身の利益を最大化することに関心があり、社会保障をしません。自由に淘汰される社会。それが自由社会です。

だから、今、世界に純粋に「資本主義だけの国」なんてのはなくて、どこもそれを修正した福祉主義的要素、社会保障を国家制度のなかに取り入れています。アメリカが最も自由主義的資本主義的と言われますが、そのアメリカも今、休業保障を打ち出しています。

そういう福祉主義的な政策が皆無であれば、たとえ小売店であろうとも、自分の資本で生業をつくったらそれを生かすもつぶすも自分次第であり、地震だろうが津波であろうが、コロナであろうが、危機管理も自分ですべき「自己責任」になりますから、今、「売り上げがなくなった」と言って困る人がいたとしたら、ふだんから危機管理でこれに備えて十分な預金を有していないのが悪くて、賢い者ならば自転車操業などせずに、半年くらい休んでも食っていけるように万一の資金を保持しておくべきなわけです。資本主義社会で生きるなら当たり前のことですから、わたし自身少しはそう思うところがあります。そこは病気やけがでホームレスになったとかと事情が違い、もし店主が今まで一度も病気入院などしたことがなく健康に働いていたとしたら、全く蓄えがないなら、率直にいってそれはバカだと私は思います。

 横道にそれると日本は現金主義が好きでよく創業に際して銀行から借り入れをしても、しばらくして返せるくらいの金がたまったらすぐ返済してしまう傾向が大きいそうです。「資金」というものの意味を理解していないのです。これまでのもうけ、なけなしの全部を払って創業資金を返済し、そこからは自転車操業。利子を返すのはばかばかしい。いや、そういう商売の仕方こそがばかばかしいでしょう。

 

さて、じゃぁすべて潰れてくださいと私が思っているかというと違います。わたしは社会民主主義者ですから、失業手当や生活保護があるように、こうした災害時には損失についてのある程度の保障があるべきだと思っています。しかし、普段から底堅いのと、基盤がぐらぐらなのでは、一旦ことが起こったときの社会負担がまるで違うのは当然です。だから学ぶ機会や経営術の学習機会をふだんからもっと与えるべきだと思っています。そうすると社会全体が助かるからです。自営業がふるに朝6時(仕入れ)から夜7時まで個人営業で働いている(近所の八百屋さんはそうです)は端的に言って間違っています。人間の労働時間として長時間過ぎますし、家族ともっと楽しめる時間をもつ余裕があった方がいいです。(別に小売りをつぶそうという話ではないです)

 

むしろ大店法を変えた方が間違っていて、大規模スーパーが駅前商店街の活力を奪ったのが、人間の幸せに反していると思うのです。安く物が変えることと、人間らしく暮らせることを天秤にかけたら明らかに後者の方が大切というのがわたしの考えです。

しかし、資本主義は当然前者に行ってしまいますから、全国地方も津々浦々イオンモールがあったり、同じような外食レストランが林立するわけです。アメリカ的風景ですね。ヨーロッパは賢いからそこまでアメリカナイズされないで、調和を意識的に目指しました。その賢さを参考にすべきだと思います。

 

さて、このように考えると、近年盛んに識者が指摘するように資本主義の限界、特にその後期に登場した新自由主義リバタリアン的行き方に限界が見えたと。

グローバル資本は効率と低価格への圧力が世界的にかかりますから、安い地域の労働力を集中投入して生産し、その同じ製品を世界で売るというビジネスモデルになります。地域の特色を消しますし、端的に言って途上国からの労働搾取です。(これへの対抗が近年コーヒー業界などで顕著なフェアトレードということになります)

 

必要な産業には国がある程度補助して(その一環としてこういう災害的危機事態では産業や芸術を国が保護して)、国の中で産業が空洞化しないように手立てを打つ必要があります。まさにここが政府の役割で、昔の市場主義では産業には国は手を出すな、そしてリバタリアンはまさにそれを極限化してと考えるわけですが、それではうまくたち行かないことがこのコロナ禍でも明白になってきたわけです。倒産の死屍累々では国もやっていけません。

 

そこで国の独自性、さらにその国のなかでの地方の独自性をある程度維持する国家的方策が必要で、産業に国が口出しするわけです。日本の勃興期でも殖産興業で国は口を出すのが好きで、産業統制としては今もそうです。しかし、既得権益をもつ者が利得をがめるために口出しして統制するのでは効率が低下するばかりで、賢くありません。単に新規参入をこばむとか敷居を高くするとか、規制を多くするとか。

 

そうではなくて、地方や国の戦略をある程度明確にして(もちろんやりながら修正をかけつつ)、とにかく国内の仕事に賃金保障をすることが重要です。賃金保障でなければ、ベーシックインカムでも構いません。つまりまともに働いている限りは困窮しない、食うに困らない、最低限の文化的生活は保障されていて、不安を抱く必要がないということです。災害だけでなく、個人的なけがや病気、障害、出産、子どもの多さ、これらすべてに対して保障を充実させて不安をなるたけ減らすことです。

 

これによって内需(生活者側の購買意欲や消費)は活発化しますから、そういう社会状態を常に維持するように心を配る、それが政治という役目です。

 

だからわたしの考える、政治は大きな政府であり、そのための資金、配分のもとになる税収は高く設定する必要があり、それは所得税で累進制を高め(今の日本は累進制が超低すぎる)、税収を確保する。前にもzatuで書きましたが、そのためには政府信頼が必要なので透明性と意味のある第3者チェックを、ネットを活用して確保することになります。透明性があって、さらに政策への自己関与、自分の意見が通る見込みを高くもてることで初めて税金は払う気持ちが生まれる(お上に取り立てられるのではなく、自らへの社会サービス享受のため)。これは社会民主主義的世界です。

 

日本の不幸な点はまっとうな社会民主主義政党に欠ける点です。理由はいろいろあってこの記事では論じませんが、左派は社会的権利に関心があって、経済問題を遠ざけ過ぎた。そして経済政策を中心に打ち出すのではなくて、外交・防衛的問題である平和主義にアイデンティティを入れ込みすぎた点が世界各国と違う特色で、もともと思想的に左派だって暴力主義左派がもちろんあり、世界に非武装中立左派なんてありません。日本の安保事情、9条事情から軍備を持たない=左派 という変な連合が成立しました(ちなみに私は武装論です)。

 

それよりも日本ではリベラルあるいは左派が、多くの人が幸せになる経済的分配政策を強調すべきだったと思っています。そして実際世界趨勢はある程度のこの考え方をもつ政府と、それを(ヨーロッパで長かったので)切り詰めて小さくしようというせめぎ合いが現代をつくっているわけです。そうした応酬が政治的に欠けているのが日本です。

 

その不幸によって日本では大部分自民党が政権を担い続け、しかし、こうした危機の状況でも本来の自民党は資本主義的政党ですから、大企業経営陣に味方として振る舞い、また庶民への再分配、所得保障に冷淡なのは当たり前、いまさらホント当たり前なんです。自民に投票してきた人は、いわば保障をしてくれない政府を支えてきたのだから、今保障されないのは当然なんです。もしそれをおかしいと思うなら今後一切、自民党に投票すべきではありません。明白です。庶民に配慮しない政党、それが自民党の党としての性質、本質なのですから。

 

さて、それがわかっている商店主では(特に都市部では)、共産党公明党の支持が大きいです。ふだんこまめに商店を回って、地方自治に意見や要望を生かす。地道にそういう地方政治を地方議員が行っていますから、頼りになると思われています。地盤を共産党公明党は奪い合いますから対立します。中選挙区だった頃はこういう票が、自民意外に公明党共産党の当選者を議会に送っていたわけです。しかし、小選挙区制で国会は死票が多くなり、既得権益者が有利に働くようにすっかりなってしまいました。

 

自民党献金地盤、投票の地盤は大企業や、特定の支持企業(パチンコ店や理髪店)、宗教団体、各種業界団体ですので、そこさえ手当しておけば選挙は勝てて、議員おのおのも自分が安泰と思っている。極端に怖ろしいことを言えば、公明共産支持の商店なんて全部潰れても自民党は痛くもかゆくもない。チェーンの大企業が支持母体ですから、駅前商店街が枯れても困らないのです。そういうことでは、日常生活に潤いを与えている幸せの素になるひとつ、地域の人間関係や支え合いのような社会関係資本が枯れます。自民党アメリカからのグローバル圧力にも弱いですから、地方の小さな店がつぶれてアメリカ資本が大々的に日本を席巻しても平気なのですね。いわば売国主義です。強く言いすぎに思うかもしれませんが、自国の産業を保護せずに、つぶしていく政策に積極的に荷担したとすれば売国といっていいでしょう。アメリカから必要以上に大量に兵器を購入することもそうです。これらは幸せにつながりません。軍備がいらないというわけではなく、合理的に言ってムダが多いということです。

 

ということで、日本社会を生きる成員(それは外国人でも在日の方でも)の幸せのためには、もっと生活者の立場を尊重し、きちんと税金を再配分する政策が不可欠であり、それを社会民主主義と呼ぶなら(国民主義でもなんでもいいけど)、意識的にきちんとそういう社会に対する考え方が広まって、行き渡って、選挙のときに意識して考えてほしいなということです。

 

日頃の宣伝も資金と物量がものを言うので、難しいです。しかし、もっと日本人は堪え忍ばずに貪欲に自己の真の幸せをがめつく求めてほしいです。こういう宣伝の戦略はまだまだ工夫が必要で、運動論的な問題なのだなと思っています。

 

とりあえずここまで。