tsuyukusa's blog

心理学あたりのあれやこれや

授業の質問

授業に関して出た興味深い質問を書いていったりします。

 

自己呈示をきっかけに・・・・

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興味深い質問がありました。
『防衛的自己呈示の「弁解」「正当化」などの分類、「謝罪」のプロセスなどについて網羅性・正当性についてはどのように保証されているのか。有名な論文などで検証され、普及しているのか、有名な先生が提唱して、それが普及したのか?新しい知見や置き換えなどはどのようなオーソライズが働くのか?』

法学系の方から出されたものかと思いますが、学問の基盤として非常に重要な疑問だと考えます。

この点、心理学会内で十分議論されているようにわたしには見えませんので私見を述べます。

基本的に心理学の知見のオーソライズはオーソライズというよりも実証的証拠の問題であり、誰が言い出したとか関係なく、多くの研究者が同じように追試しても同じ結果が得られるという実証の頑健性によって保たれます。

しかし、最初の理論的提示やモデル提示では不十分な場合も多く、「とりあえずモデルを立ててみる」というケースも多く、そういった場合、そもそも「網羅性」があるという主張はあまりなされません。大体網羅性という特質自体があまり心理学が重要としていないものだと思います。

「自分の考えるに主張的自己呈示にはこんなものがあると思うけど、どう?」という感じで、「付け加えたい人は付け加えてね」というスタンスだと思います。人工物であれば人工物の限界としてその特徴、プロパティの網羅的列記は可能と思いますが、人間相手では現象の方が先験的に先にあるので、すべてを捉えられない可能性が高いわけです。医学においても「病気、疾患」は実は網羅的に挙げ切れていません。つまり世には潜在的に見つかっていない「疾患やウィルスが存在している」ということです。一方法体系であれば、穴があってはいけないので条文を作成していくときにその体系のなかで漏れ落ちるものがないように、起こりえるあらゆるケースに対して網羅的に適用できる法を求めます。

しかし、心理学の場合、疾患よりもさらにあいまいな人間行動を相手にしているので、定義や観点しだいで、さまざまな分類が可能です。決着だってつかない場合もあります。そうすると当面、「有用性」の基準で、「これで考えて不都合がない限りそれを使っておこう」ということなり、分類に付け加えがあって有用そうなら随時採用していくことになります。これを変化させるのはやはり実証的証拠であり、そのモデルでは説明が不十分な現象が観測されたといったことからモデルの修正が開始されます。

しかし、以上の建前以外に授業でも少し言及したように、認知的不協和理論などが「有名なモデル」になっているのは、「有名な」フェスティンガーが提唱したからで、発表当初は検証不十分な現象がたくさん見つかり、ずいぶんと修正されました。行動と認知の不協和でなくて、2つの認知間の不協和であるとか(Aronson)。今でもBemの自己知覚よりもFestingerの不協和の方が著名なのは有名で主流にいた先生による理論という側面もあったからです。しかし、法学ほど、誰それ説とか名前がついたり、権威者の意見が重視されるわけではありません。だから今回の試験問題でも研究者の「名前」に関わる問題は出題されません。

結局「みんなの納得」なんですね。だから科学的、学術的に正しくても「虫が好かない」「そんな考え方はなんだかイヤだ」といった感性的な反応のために主流にならない、あるいは普及の遅れる理論(来週の進化論)も現れてくるといった「所詮人間が学術世界を運営、マネッジしている」といったグループ・ダイナミック的要素、政治的要素なども関与する余地があるわけです。その点は文科系の学問の方が理系のものよりも人間的な影響を受けやすい特質があると考えられます。

しかし心理学が重視するのは前に記したようにひとつひとつのコンテンツというよりも「事象の解き明かし方」「方法」にありますから、よい「方法」を持つ限り、「間違い」はただせますし、新たな証拠に対応して変化できます。それが強みであると考えています。