tsuyukusa's blog

心理学あたりのあれやこれや

気ぃぬいて楽しくしようよ

「もう日本列島をさびれた小さな漁村の集まりのようなコンセプトで小さな東の島風にして原住民(私たち)の脇に中国やシンガポールの金持ちが唐突に聳えるきらびやかなリゾートホテルでバカンスを過ごして、独特な日本風味の民芸品と能・歌舞伎の民族芸を見せながら生活するのもある種味わい深い人生では。」

 

とまぁツイッターにこんなの書いて、10数人がいいねしてくれたわけだけど。

 

ほんと、ねぇいつの間にか、日本は工業生産とか、「ものづくり」大国とか、車や一時は家電とか売れて調子こいてたけど、まぁ今も部品や半導体売っているけど、もともとは手工芸品なわけで。

 

わたしは京都の手工芸は好きで、西陣はもとより、これに支えられている京都的伝統文化っていいなと。

地方にたくさんある中京や九州に多い焼き物、陶磁器もいいし、漆器なんかもねぇ。

 

なんかせわしく、機械で大量生産しないといけない規格品って好きじゃないんだよね。たまたまいっとき、うまくいったかもしれないけど、そういう重厚長大産業って時代でもないし、あんなの海や自然汚れるし、大規模工業団地つくらないといけないし、石油コンビナートとか、化学工業も海辺の景色として美しくもないし・・・。

こういう産業品って、安い労働力でつくれるところができてきたら、すぐに駆逐されて立ちゆかなくなっていわゆる現地工場とかつくって、要するに現地の人材資源安い人を搾取していく構造じゃないですか。好きくない。

 

それなら、日本人や日本文化を気に入った外国の人たちでもいいから、たくさん弟子入りしてもらってヨーロッパ的な「付加価値商売」した方がいいと思うんだよね。ここでしかない、ここの文化でしかできないという文化力で売る。そうした効率は悪いかもしれないけど、付加価値を高めることで生産性をあげて、人の給与を減らすことで見かけの生産性を上げるのじゃなくて、売る物の値段をあげていくことで生産性をあげてほしい。人的コストの分母を小さくすることではなく、正しく分子の価値を高めることで生産性の指数を高めてほしい。

 

文化の価値は観光の価値でもあるから、観光と文化はセットでそれが少々、コロニアリズムだったとしてもまぁいいじゃん。世の差別は減退の方向におおまかにはいくだろうし。それで過ごす時間を大切にしたい。

工業化主義って時間の切り売りみたいな感じで時間に管理されてしんどいじゃん。全然幸せにならない。人のこころを重視したサービス産業に移行したらましになるかもって思ったら、日本じゃかえって際限ないおもてなしの感情労働になるばっかりでよけい疲弊するじゃない。近代的なサービスってあまりうれしくないよね。

 

だから、おれは日本はもう時間のとまったような島でいいから、極東にあるこの立地を最大限に生かして、スパリゾートでいいと思うんだよね。温暖化進めば要するに、ここみんな沖縄や南洋列島になっていくわけでしょう。水位あがれば今の江戸も大坂も沈むし、また元に戻る。日本人がハワイに行く感覚に近い感じで、中国人がちょっとした休みにまめに日本に遊びに来たらいいと思うんだよね。おおぜいいるし。客が安定供給じゃん。イスラエルだって西洋世界の保養地だし。世界から文化遺産保存のための寄付、基金あつめてさぁ。日本列島こそが究極の世界遺産だよ! 天皇家のY遺伝子は生きる世界遺産だよとか言って、珍しい習俗とエキゾチックな天皇崇拝(いや自然崇拝)を残しつつ、山でかがり火たいてあやしい行事やって、ありがたい煙やお香を焚いて、外国人を煙に巻くって楽しくない? それでお金落としてくれたらいいやん。

 

行事は動く観光資源、今は活動レジャー、参加エンタテインメントの方が外国受けするから、いや~、うるしかぶれちゃいましたねぇ、てへぺろってやりながら、究極の小間物、どれだけ小さいもん作れる競争とかってめっちゃ日本らしいコンテンツやしね。

 

こういう文化と観光って、開き直って腰を据えればいいと思うよ。その延長でお土産という感覚含めて、和服、浴衣、衣料品もつくればいいと思うし、布染めて、てぬぐいつくって、Tシャツつくって。

 

ツイッターには書いたけど、抱き合わせで四国でへんなアプリやゲームつくる、大歩危バレーつくって、IT産業、振興して、あと、舞台芸術でのエンターテインメント中心で(ギャンブルはどっちでも、なくてよければない方がいいから、シアター街みたいに)淡路島にオタベガスつくって、海を船で回遊しながら、いろいろ日本を楽しめるようにしたらどうかね。大阪湾の行き止まりが大きなナイアガラの滝みたいになっていて、大規模ディズニーシーを瀬戸内海で展開するとどうやろうね。芸術の島よります~なんて、映画の島で映画祭とか、ビエンナーレやってりゃいいし。それでこいうのもTシャツのコンテンツになるわけ。コンテンツを生むソフト産業やね。だからアニメもマンガも大振興。給与高くして。

 

妄想でした。でも、こういう世界の方が楽しく、軽々と住めていいんやないかなぁ。

みんな難しい顔して忙しくて、幸せでなさそうな日本はよくないと思うで。

 

とそこでも結局、おれはメディア研究者ですぅとか言ってるかもしれへんけど。

○○芸術大学でええわ。

災害での日本

まぁこういう人生で還暦にもなっちゃうと自分が結局できたこと、できなかったことも考えてしまうし、いろいろなことを「もうできない」と思うのは早まったことかもしれないが、だけど、30代、40代、50代これこれで、その流れのなかでこうした60代みたいな妄想のオールタナティブ人生というのはもう確実にない。

 

自分が政治家に向いているとは思わないし、成功するより傷つき、腹立ち、貶められみたいな結末になりそうなのは今ならわかる。

だけど、うちの血筋の一部は政治好きだ。

 

25歳で研究室を飛び出て、外の世界に出て、リサイクル運動に奔走したとき、あのまま、そのまま市民政治家になっていたらどうだったろうとは思う。

 

さて、そういうこともあるし、とても現実的に部の後輩が今、衆議委員議員だったり、徳島県知事だったり、先輩が神奈川県知事だったりするわけなので、政治のことは考える。

 

NHKの災害の話から思ったことの続きなのだが、放送では(ちゃんと見ていないが)、庶民が自らの命を守るには?とか、設定はまぁ放送局というエリートの特に災害時など特権的な権力を持つ人々の奔走を描いているが、普通に考えれば、政治機能がどうなるか気になる。

 

ここまで平気で一極集中してなんでも行政が東京にあるのでいいのか。そしてメディアも出版も言論界も。 産業はまだ本社東京でも関西支社とか大阪支社とかあるからましのように思うが(そう思っているのは産業界音痴だからに過ぎないかもだが、本社や東京にもっている土地の価値が暴落したら含み損がものすごいことになり株価暴落でただではすまないような気もするけど)、災害で一挙に閣僚15人くらい亡くなったらどうなるんだろうね。

 

あるいは彼らは比較的丈夫で安全なところを移動しているから平気なのかもしれない。

 

逃げるなら空だよね。ヘリコプターに分乗して、リスク管理しながら、札幌や博多にでも行くのがいいだろう。

 

よく「緊急道路」とか言うけど、実際絶対に役に立たない気がする。シミュレーションにあるような規模の地震が起きたら、今の東京の1960-70年代に建った古いビルでメンテのよくないものは容易に崩れるだろうし、1つ2つ崩れただけで靖国通りだって、中山道、外苑通り、みんな円滑に通行できなくなるだろう。

1号線くらい広ければ、脇の建物倒壊してもまんなかあたりを走れるかもしれないけど、動かなくなった車や乗り捨てられた車がものすごい妨害になって、撤去のための車両はもうてんてこ舞いで間に合わないだろうし、爆破して吹き飛ばすくらいしかないのではないか? いずれにしても陸の交通は絶望的になるだろう。滑走路もどうなっているかわからないし、羽田なんて沈んでいるかもしれないから。小型機を飛ばすのもむしろ調布や入間あたりからの方が安全な気がする。横田基地は、断崖の北にあるから大丈夫なんだろうけど、立川の防災拠点は立川断崖の近くにあるから信用ならない。

 

とにかくヘリやらなんやらで、どっかに緊急に「避難した、場所を移した政府機能」がないとどうしようもないだろう。

 

さすがに政府機能が滅亡して、地方の自治体レベルが代わりにやりますっても、今の名古屋も大阪も信用ならないこと限りなしだから、ホント今の日本って脳天気というか、危機管理的によくもまぁこれほど代替機能にもならなさそうな布陣で平気で運営しているなぁと思う。もっとも親玉の現政府が最も国の管理や国益の観点から言えば、一番信用ならないくらいだから、もう日本人は自分たちの国の管理や運営をどうでもいいと放棄しているようにしか見えないくらいだから、仕方ないのかもしれない。

 

しかし、一般の平均的日本人はおそろしいほど英語も話せないし、いざとなったら日本列島以外どっかに出て行って暮らすこともままならないのにね。だからこそ、油断した政治がまかりとおるのかもしれないけど。

 

スペインで大地震とかあったら、みんなでアルゼンチン行くとかいろいろあり得るかもしれないけど、日本語しゃべっているの日本列島だけだし、ハワイには入りきらないし、それこそ樺太を占拠する(貸してもらう??)くらいしか、生活のしようがないのではないかと思うよね。ある種、レジリエンスが脆弱というか。危機の弱そう~~だよね。それでこんな災害列島に平気で乗っかっているとか正気の沙汰ではないかもしれないが、これがリアリティは見ないで夢喰い人である日本人の特性なのかもしれない。

 

本当に100年後あたりはこのままだと人口も減るし、自然消滅的に運営管理できなくて、中国の支配下に入っちゃっているのではないか、世界史の一コマとしてはそうした未来しか見えないような気がする。中国の支配下入ったらウィグルやチベットほどでは宗教的問題生じないからアレかもしらんが、原住日本人が差別されて冷や飯、低階層になるのは明白だよね。

だからと言って、いち早く、アメリカの51番目の州に入れてくださいとか押し売りしたって、まさに不沈空母化が徹底されるだけで、対中戦略の拠点としてしか働かなくなるから、まともな仕事したければ本国アメリカに行くしかないし、それがうまくできる人はやはり人口として限られているだろう。本当に日本を大事にしてくれるのは、本来、日本政府しかないはずなのに、なぜここまで自滅路線を歩むのか・・・。

100年後、今のような人口構成(民族構成??)の日本はたぶんないだろうなというのが、わたしの見立てですね。だからどうってこともなく、所詮人類史の一コマとしては、ほんのちょっとした栄枯盛衰に過ぎないのでしょうけど。 ひとつの地理的地点にいつまでも特定の民族の支配が続くことの方が世界史的には希のような気がしちゃう(単に生息しているというのではなくて、勢力、支配権のありかという点では)。

残念だけど。

災害をめぐって思ったこと

久しぶりに書く。ツイッターでは収まらなさそうな思考の断片集積があるので、まとめて吐く。(間違えてさっきzatsu-tenの方に書いちゃった。ten は天六のten なので関大を去ってしまった自分はこっちに書かないといけないと思ってる)転載しました。

 

木造。これは授業でも言っているテーマでヨーロッパと異なり、近くに石の切り出し、加工しやすい大理石とかなかったからイタリアとかフランスと違って、日本は木造で建物をつくった。寺社とかも。

 

で、災害で倒れる(きちっとした建築様式でつくった寺は意外に倒壊しない。すごい)。地震津波で、市井の人々が暮らす集落などはあっという間に壊滅する。たぶんその繰り返しだったのだろう。

 

ある種の知恵としては倒れやすく、再建もしやすい安上がりな(労働としても)木造普請で住むところをつくるわけだ。昔なら、「持ち物」私有財産もしれているので、道具を作り直したり(今もそれなりにたいへん、三陸とか)してがんばるのだ。

 

一種確信犯的に崩れやすい木造を使う  という知恵。

 

さて、災害に備える。

 

倒れにくいのはやはり鉄筋コンクリート。コンクリートでつくる。レンガ造りは地震に弱い。地震のないヨーロッパだからできること。

 

しかし、今はひどいがもっと冷暖房効率をよくするため、ガラスの基準も先進国並みにあげて、壁も断熱性を高め、外からの火事、火にも強くしたらどうだろう。

ひとりの家を考えて、ちょっとした台風とかの災害に備える防災ならとても有効に思う。

 

しかし、近頃NHKでシミュレーションやっていた東京で直下型マグニチュード7くらいの地震があったら?

 

火事の怖いところは中からも火が出ることだ。

冬場で石油ファンヒーターなどつけていたり、料理で火をつかっていたら。今は揺れですぐに消えるようになっているけど。これは全員でないと意味がないかもしれない。

冬場とか乾燥しているときにどこかから火が出たら、風なんか吹いていたらあっという間に一面、自治体ごと街ごと火の海だ。

 

それを守るために、ことごとくがコンクリート住宅になったら?

 

それはそれで、やはり暖房や調理等々で家のなかから火が出たら、かえって換気の悪さや断熱性は、家のなかに毒物の煙をためこみ、すぐに失神、一酸化炭素中毒など逃れられない。家のなかに死体累々(世帯人数いま少ないけど)となりかねない。

 

やはり街造りでできることは、街単位で、大きな大きな街路で離していくしかない。関東大震災のあとに、上野広小路をつくったように、大きな広小路をもっともっともっとどこの市区町村にもつくって、際限ない延焼がないように食い止めるしかないのではないか。

 

そして道路行政での立ち退き工事の難しさだ。

 

小学校のとき、友達の家が阪神高速開通のため、立ち退きしたのが、工業化社会の問題をついた詩として毎日新聞に掲載されたのが、わたしのメディアデビュー作の作品のきっかけをなしたわけだが、そういった理不尽に思える立ち退きの問題とはまた異なる視点として、日本の土地行政の問題点が大きくあるように思った。

 

それは農地、一所懸命を大切にしていた伝統に基づく、土地の私有化の推進だった。農地改革のあと、土地は小作に切り分けられ、細分化し、土地の私有化は徹底され、登記簿で管理することが進められた。それでもどこでもいまだに「よくわからない土地」が残っているもんだが、根本的に解決するには、土地の公有化が一番だと思っている。

これは持論で昔から言っているが、土地を資本主義に任せて自由取引してろくなことはない。東京の地面は高く、商売するのにも足をひっぱるし、高くて住むところがなかなか買えない。 地方から東京に出てきたわたしが最初に理不尽さを強く感じたのは、単に先祖がちょっと昔からそこにいただけで、横暴に振る舞う大家だった(出会いが悪かったかも)。わたしが土地を買って家を建てようと考える遠因になったものだ。

 

土地は公有化。社会施策として、リーズナブルの値段の公営住宅の提供。これが社会的な共同資産として最も重要なものと思う。どんな収入でもとりあえず住むところはあるという国。

 

昔よりは個性を持たせた建築も技術的に安くできるし、たくさんたくさん特に東京なんて、たくさんたくさんたくさん公共住宅を建てればいい。一戸建てなんてほんの一部でいい。首都のような街でこんなにたくさん一戸建てがあること自体おかしくないか。ヨーロッパの街だって都心はビルばっかりだろう。多くの会社員、学生がマンションというかビルに住んで通っている。

 

都心はもうビルだらけでいいから、それにちゃんと広小路、大通りを計画的に配置して、一戸建ては全部取り払う。それぐらいの首都改革しないと東京はもうやばいのじゃないか。

 

しかし、郊外の街も災害で火の海になるから、街路は必要だ。計画的に道を通すことはもっと必要なのだろうと思う。

 

2017年東大研究室40周年記念講演

最近、トークをすることも多くなってきたので、話の前提に、こうした問題意識持っていますということで、2017年在外研究前の3月に東大社会心理学研究室で話した原稿を掲載しておきます。 誰も転載などしないと思いますが、発言の著作権にはご留意ください。

 

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     東京大学社会心理学研究室40周年の集い       017/03/11

 

             社会とこころをつなぐ

 

  

 特定の国からの入国禁止措置をとったアメリカの新大統領トランプのことを考えると、世界規模でこうした措置への反対が唱えられているにも拘わらず、アメリカ国内での世論調査は賛成49%vs反対41%と言われる。細かな調査の妥当性の問題もあろうが、ある程度の分量のアメリカの人々がこうした政策、措置に賛同している事実は注目に値するだろう。

 そもそもアメリカメディアが(日本のメディアも)トランプ当選を予測しなかったということにもあるように、実際の「民意」とは何かも問われる。票数はヒラリー・クリントンの方が多かったが、しかしそれでも拮抗するほどの支持がトランプに寄せられていたのだ。話者はトランプを支持しない。しかし、ここで何が起こっているのかを研究者たちは先んじて理解する務めがあるだろう。社会の解析を素人に負けていては専門家の存在価値はない。もっとも世論調査の分析的な方策以外に社会心理学という領域が切り込んでいく方法をもつかどうかは分からないし、こうしたことはいわばマクロの領域であるから、実験社会心理学が専門である話者が首を突っ込んで論じるのはお門違いで全くもって僭越なことかもしれない。

 

 しかし、実は現在、ミクロとマクロとを有機的につなげていくということこそ、社会心理学の重要な方向性ではないかと考えられる。そういう話を本日できたらと思っています。

 そもそもわたし個人のことから少し語らせていただきますと、もともと心理学を学ぼうと思ったのは、「世の中をよくしたい」という考えからでした。全くそうした試みには個人的に現時点では失敗したとも言えますが、「社会」という大きなシステムに関心がもともとあったということです。社会をよくしたくて心理学という志向性からして、ミクロからマクロへという方向を目指したものでした。

 さて、話を戻しますと、識者も指摘しておりますように、トランプの大統領当選は、知識人層の周辺の人々と投票者、支持者が解離していたという現状があります。失業した白人労働者などかつての中間層から職を失い、生活的にいわば転落していった者たち、苦しんでいる者たち、しかもそれはかつて中間層だったアメリカ白人労働者です。(もちろん階層的にはもっと苦しんでいる底辺層が別にいます)

 議員もメディアも大学人も評論家もいわば中の上、上の下の社会階層においてまんなかより上の方です。思い切って言ってしまえば上層かもしれない。そういう人たちの視野のなかからこうした白人労働者がこぼれおち、かつては投票にもいかずにサイレントマジョリティーとして黙って耐えていた。彼、彼女らにとって政治は遠いもので、まさにワシントンはよその世界だったのです。

 今回の入国禁止、排斥も同じ事を繰り返しているという構造が透けて見えます。アメリカの良識を持つ人々、大学人、大学生含め、そうした人たちは平等、自由という重要な旗頭をアメリカという国家が降ろすなんていうことについて、もう信じられないとか、あり得ないという感想を抱くでしょう。国際的に政治に関わる人、国際機関で働く人々みんな多くがそうでしょう。

 しかし、トランプを支持している人にとっては、そんなことは関係ない。自分の職が奪われてきたと思っていたりする。移民がアメリカの社会構造を変え、自分たちの毎日の生活を不安定にしてしまっていると信じている。この分断、解離した構造、考えの決定的な違いの背景を学術的にも分析すべきであるとわたしは考えますし、実際、ここにいらっしゃる幾人の方達がすでに研究としても手を付けていらっしゃるものと思います。

 実証データを考える前にというか、本日それはないので、理論的な考察を行います。

 まず、第1に、そもそも国家と自由の関係について。これは永遠に変わらないものでしょうか? アメリカはその独立の経緯からして、イギリス支配からの自由と言うことで、宗主国との関係から、○○からの自由、抑圧からの自由、解放ということで、国家設立時から自由を大きな価値としてきました。初めからです。徐々に「自由」を獲得していったヨーロッパの深い歴史とは違います。いわば人類の進歩のようなものをとても大急ぎでおこなってしまった。フランス革命に先んじて、アメリカ独立は生じ、フランス革命が大混乱を招いたのに対し、アメリカもシビルウォーなどはありましたが、政権の形自体が共和制や独裁や王政や帝政などコロコロ変化したわけではありません。

 自由とは解放だったのです。今それではアメリカは何から解放されるのでしょうか? 旗頭、理念としては人権の尊重、マイノリティの尊重、機会の平等、実質がどうなっているかはさておいても言論の中、理想の中では誰しもが、いや多くの人がついこの間まで、アメリカはこうした自由と民主主義の守護者として振る舞い、世界に民主主義を浸透させるちょっとおせっかいな民主化という旗印で中東などにも関与していったわけですよね。アメリカは自由と民主主義の代表だったわけです。

 しかし、「自由」とは何でしょう。まさに「自由とは何か」という本を著した保守思想家の(わたし自身とはちょっと立場が異なりますが)佐伯啓思先生は、次のような分析をしています。現代の自由は結局「個人」を出発点にしている。植民地であれば、宗主国vs我が国の独立ということになり、国家という集団自体が自由を獲得するという話になる。アメリカも建国時はそうでした。

 しかし、今そのように他の集団から支配を受けているわけではない。日常にある自由は何々する自由で、自分のやりたいことを人からとやかく言われないで勝手にできるということですね。基本的人権として個人の自由は絶対化される。何を信じるか、信教の自由、言論の自由、プライバシーの不可侵・・・。日本でもよく言われます。「人に迷惑さえかけなければ何でもしていいだろう」と。ここから議論ができるというわけです。

 つまり、ざっくりと申しますと、そうした個人の自由を絶対視する立場と、何かそうではないコミュニティと申しますか、「人と人との関係」にもっと配慮したあり方です。これは文化の違いでもあります。伝統の違いでもありましょう。

 何も昔のように、「イエ」を守るために家父長制のようなものが個人の人生を圧迫してよいと言っているわけでは毛頭ありません。重要なのはバランスでしょう。何かを大切だと思ってしまうと、それと対立しそうな気配を感じるものには全面的に対決、廃してしまう。それはもう少し落ち着いて客観的に考えてみたら、思慮をしてみたらという提案です。

 社会的なものの代表は「規範」でしょう。一般に規範は自由と対立すると思われている。佐伯先生もそれは違うのではないかと記しています。自発的に規範をみんなで立ち上げ、構成して、みんなで自発的に規範を守ろうとする。そうした姿もありますし、まさにそうでないと規範自体うまく社会のなかで働きません。それは意味のない校則でスカート股下何cmとか、ソックスは白か紺といったナンセンスなものとは違い、電車の床に座らないとか、日本では大声で電車のなかで携帯電話しないとか、お年寄りに席を譲ろうとかのことです。こうしたことと「自由」とはどういった関係にあるのかを考えなくてはなりません。

 社会を運営し、そこにいる人々ひとりひとりが幸せであるということに対して、必ずしも「自由」ひとつが決定的な処方箋なんかではないということを冷静に考えてみる。

 さて、わたしは現在モラリティの研究もしたりしているのですが、今、Haidtというアメリカの研究者が有名です。モラルを構成するものとして5つや6つの基本的な柱を指摘しています。(スライド:モラル表)

 そして日本でも翻訳されている著書として一般向けに、『社会はなぜ左と右にわかれるのか? リベラルはなぜ勝てないのか?』という本があります(スライド示す)。

告白しますと、こちらにお世話になる前の・・わたし教育心理学科の出身なのですが、リベラルな教育学部でわたしはかつていわゆるサヨクにシンパシーを持っており、遅れてきた世代としてまさに不毛な挫折、うまくいかなさを多く味わったものでした。1980年代にリサイクル運動を行い、親からは「ゴミ屋になるのはやめろ」と言われ、リサイクルショップなどもまだ社会の側の理解が薄く、かろうじて古着屋みたいなものがあったというそういう時代です。ガレージセールなどなく、フリーマーケットは少し代々木公園などで行われておりましが、こうした時代に東京で初めてダイエーの屋上でワゴン車を入れてガレージセールをやりました。その運営をしていたのです。

 自分たちは正しいことをしている。どう考えても理念的には正しい。でも企業に説いて回っても理解されない。今なら当たり前になっているリサイクルペーパーの使用や缶の分別回収、エコなシステムなどは産業の発展を阻むもののように、まさに企業の自由な活動を阻む、縛るものだと見られていました。まさに今トランプが環境への影響を無視して、石油、石炭の価値を見直して、CO2排出規制なども反故にしようとしているのと同じ態度でした。

 「正しいのに勝てない」 これがまさに共通のテーマなのです。わたしもずっと分からなかった。それは賛同しない人たちの物わかりが悪いか、理解力が足りないとか・・・そう考えるしかありませんでした。

 公正や平等の原理というもののあり方、成り立ちはやはりそうした側面があるようです。頭で考える正しい原理なんですね。Haidtが明らかにしたのは、ちょっと前のことになってしまいますが、アメリカにおいて、公正とケアを決定的に重視しているのが、民主党支持者であると。政党支持、社会の理想についての考え方の違いによってどの道徳メニューを重要と考えるかが異なってくるのです。共和党支持者、保守の方では、それ以外にも権威、忠誠や神聖などこの基盤5つともレパートリーとしてそこそこ重視するといいます。親を敬えとか国家に忠誠心を持てとか、あるいは移民排斥というのはもちろんけがれ、清浄さの尊重という要素があることが知られていますし、日本でもこういうことをおっしゃる政治家の一群がいらっしゃいますよね。

 しかし、一方で、「仲間を裏切らない」とか自分の所属集団に誇りを持つとか、小中高の教師-教えてくれる存在に適切な敬意を払うとか、先日もモンスターペイシャント(患者さん)のことをテレビで取り上げておりましたが、治療してくれる医師に対してまぁもちろん今では、単に従うとかではなく、ある側面では対等に話をした上でのことですけれども、それでもなお専門家、治療者として適切に敬意を払うなどといった、こうした要素が決定的に崩れてくるとそれはどうでしょう。それは、生きやすい、みんなが生きていきやすい、生活しやすい幸せな社会状況と言えるでしょうか?

 自由と秩序はきっとバランスが必要なのでしょう。そう思いませんか? しかし一方、秩序を優先しようと安易に多数の意見を通してしまうと、とてもマイノリティが生きにくい社会になってしまいます。マジョリティの意見が「社会の常識だ」、「秩序のもとだ」と社会規範を占有してしまうとたいへんなことになります。マイノリティについては、そうしたマジョリティの圧政からの解放、自由の獲得が真剣な課題になります、今現在もマイノリティにとってはそうした側面がこの現代日本社会のなかではたくさんたくさんあり、大きな問題になっていると思います。

 何かを実現するプロセスとして、行儀良くはやっていられないから、圧政を駆逐するために秩序は放逐し、まず自由を実現する。そうした考え方もとれるでしょう。しかし、日本はもう革命の時代ではないですし、強烈に暴力的に社会改革するという方法はすでに多くの人にいやがられているのではないでしょうか。若者も過剰なくらい争いを好みません。

これもピンカーが描く『暴力の人類史』の現在進行形で今も進行している姿とも言えます。昔より「乱暴なことが嫌いだ」というのは悪いことではないでしょう。

 するとわたしたちは、自由と規範のバランスを絶妙にとっていく智恵を日々形成していかなくてはならないでしょう。多くの思想家が規範というものの扱いに行き詰まって立ち往生しています。規範や秩序はどこか天から降ってこないといけないと思っている。それは欧米では基本はキリスト教ですから、なんだかんだいって深堀りすれば、彼らの究極的な規範や正しいこと、善いこと、善は神の教えに還元され、帰って行くからです。人間が生み出したものではなく、神によるもの。「神」という概念装置を用いて一旦人界を越えた上空に引っ張り上げて、それを神の教えとして地に降り注ぐ。こうした手続きをとらないと誰も「同じ規範」をあがめたりしない。

 そう、文化によって規範は違うかもしれないですよね。欧米の価値観、規範をムスリム、中東地域に普遍化させることは本当に正しいことなのでしょうか。本来は彼らのことは彼らが決めるという状態にできればよかった。けれども、歴史的にヨーロッパはいろいろすでに手を出してしまって、中東社会をかき回してしまった。そのつけが回っているわけですね。放り出すことが正しいのか無責任なのか、大いに議論があるところでしょう。

 ある意味、Haidtの議論は救いの一手です。5つ6つの基盤、メニューについては学会では議論が多く、全く合意に至っているものではありません。それよりも重要な業績は、こうしたモラリティがひとつ自動的に、直観的なプロセスによって走っているんだという指摘でした。つまり、さかのぼればホモ・サピエンスの遺伝子プログラミングに一部これが入っているといういわば福音です。いやなものはいや、だめなものはだめ。兄弟のセックスとか、倒れて苦しんでいる子どもを見捨てることや娘が強姦されること。だめです。これは理論的にもある程度言えますが、理論だから冷静な理屈だからということではなく、直観的にすでにわたしたちはそれはマズイ!!ともう不可避的にそう思っちゃうわけです。もちろんサイコパスとかいて人口の100%ではないにしても多くの人にとってはそれは自明な感じを与えるわけですね。そこに福音があります。

 正しいことは理性の妄想ではなく、何か基盤があるかもしれないのだ。こうしたことを心理学が真剣に探っていくことで、うまく人間の性向を生かしたような規範や制度設計があり得るのではないか。亀田先生はもっともっとその先のところまで、エレガントな実験で院生たちといっしょにいろいろ取り組んでおられてがんがん成果を出されておられます。わたしはは全くそういったことができておりませんが、そういうことも思いまして、全く不勉強なわたくしもトランプ政権下のニューヨークに行ってひとつ身をもって考えて見ようと、空気も吸いながら考えて見ようと、4月からペンシルベニア、そしてニューヨーク大学に客員研究員として1年間滞在して、よく考えてくるつもりです。わたしの場合は、おまけを申しますと、さらに日本的というか、人と人との自由をそぐ日本的装置として「呪い」とか、「言霊」とか「怨霊」とか考えたいと最近すっかり妙なことを考えておりますが、アメリカと日本、両方の文化を学びながら思索を深めて参りたいと思います。

 在外研究の教授会のあいさつではありませんから、変な方向に話がまとまっておりますが、ひとことで申しますと、道徳の自動性、善の無意識的基盤、そういったテーマも社会心理学の今!として、海外でもかなり流行っている分野でありまして、日本でも取り組む人たちが増えております。実のところ、こちらの唐沢かおり先生もゼミ生とモラリティや自由意志について取り組んでおられます。現研究室スタッフのみなさまとも機会ありましたら、そういうコラボとか、シンポでご一緒するとか、そういったことが可能となるくらいの実証的データの研究成果を今後出していけたらと思っております。

 わたしの妄想、妄言のようなお話にこれだけの立派な参加者の方々にお付き合いさせてしまい、本当に申し訳なさでいっぱいで、もっといい話もあり得たのではないかと、おとなしく自分の専門の潜在測定の話でもしたらよかったのではと、思いっきり自分でも後悔するでしょうけれども、お付き合いいただきましたことに深く深く感謝申し上げまして、ぜひ、懇親会で「おまえの言っていることは根本的に間違っている」とか、関西流に言いますと「アホかおまえは」みたいに自由にご批判、叱咤していただければと思います。

 人間関係が不器用ですので、講演よりも却って個人的なお話、会話の方が詰まりまくりの迷走をするかもしれませんが、どうぞご交誼のほど、よろしくお願い申し上げます。

ありがとうございました。

 

 

 

 トランプの話

 

こうしたリベラルの欠点、前の構図をよく理解していたら、一気に逆転的に負けを喫するのではなく、どういう慎重な手順で理想をこの社会に実現していけばいいのか、もっとていねいに考えられるのではないでしょうか。理解しないもの、賛同しないものがばかなのでは決してなく、そこにはそこに自然な無意識の自動的な声や衝動があるのです。

 衝動は常にばっさりと理性の刀で切って捨てはできないのです。理性で切れると思うのは、傲慢かもしれません。わたしにもようやく分かってきました。仕組みがわかりきらない事柄についての適切な畏れ、そこはていねいに取り扱う、そういった自分でも苦手なやり口を意識的に考えていかねばならない。自動性を意識的に考えていく。こうした方向によって突破できる何かがあるのではないかと思っています。そしてまた正しさの多元主義をどう扱うか。不干渉で尊重し合えるというのは究極の情勢では成り立ちません。また個人レベルの自由だけで社会は成立せず、ある点においてはミクロマクロ、政治体制はひとつしか成立しませんし、ひとつの組織に複数のシステムを組み込むことは無理と言わずともたいへん難しい。集合レベルで「同じこと」を甘受しないといけないとき、個人の自由という単位はどうなるのか。いろいろ考えるべきことは多いように思います。

 

信用

叔母が亡くなったので葬儀に帰省した。

20歳の頃のブロマイド(映画女優だった)が遺影になっていた。

それはいい。

 

で、夕方実家に戻って朝日放送(ABC)かなんか見ていたら、信用スコアの話をしていた。全国ネットで同じかは分からない。

わたしもよく分かっているわけではないが・・・。

中国のネット決済でも関係している話はやはりテレビで見たことがある。放送では諸外国ではよく導入されていて、日本は信用スコア元年だと言っている。関西弁のコメンテーターが抵抗を示していたからやはり関西ローカル放送かも。

 

きっと「信用」なんて人間っぽいキーワードを聴くと、多くの日本の人たちは、またまた「全人格」が判定されるように勘違いするのだろう。目的主義的にヒューリスティックに情報を使うという発想がどうしてもとりにくいのだろうな。

 

わたしも気分よく大賛成とか、積極導入したいとかでは全然ないけど、保険やクレジットや銀行の世界で、「信用」判断は元々されていたし、むしろ日本ではそれがちゃんとされていなくて、これまでいい加減だったことが修正される余波が強いのだろう。

 

つまり、関係流動性の高い国、地域では初めから個々の人間が相手の信用判断をしている。人を信用という観点から見るのに慣れているし、取引上はそれが当たり前だ。

 

いみじくもコメンテーターが言っていたが、勤めている会社とか、そして対面で会うことで・・・とか。しかし、関係流動性の低い「安心社会」では実は個人的な信用なんて実は判定なんかしていなくて、何度も会って「知っている人だから」という単純な理由でだんだんと信用するという底抜けシステムだ。

 

信用スコアでは、個人の人間としての行動や実績が評価される。それはこれまでの日本の「安心」とは違うシステムなのだな。

 

本来、日本の銀行もそうやって相手を見極めればいいのに、さぼってきて見る目がない。節穴だ。それで担保主義で、担保で金を融資するしかない。これが日本の銀行の決定的にダメなところで、生産性の低さの原因だ。人間の信用で大胆に貸すことができないから、大きく儲けることもできない。ハイリターンが得られないのだ。国内の有望なベンチャーアメリカとかに皆かっさらわれる。日本のアホ銀行が貸す判断ができないからだ。

 

そういう点では“グローバル標準”では、個々人の人間を見て信用を決めるスコア方式なのだろう。

 

銀行の立場から見れば、差別かもしれないことを限定的に、どういう人と付き合っているかとかのリスクやなんやかや含めて判断するのは当たり前と言えるし、現実的に住んでいる地域や人種や趣味や健康などあらゆることが確率的に参入され、AIがそれらを扱えば自動的に適宜重みづけられたような形で、その人のクレジット判断がされるというものだろう。

 

個人的によい人(日本の場合はただいつもよく付き合う人だったりするが)とか、そういうことよりもビジネス的に信用力ということに寄与する変数が重要になる。悪い人間と付き合っているとだまされる蓋然性も高まるし、金を貸してくれと頼まれて踏み倒されることもあるだろう。覚悟して付き合わないと仕方ない。あえて差別なく、広い交友関係を持てば、信用スコアなんてくそくらえって感じでやればいいだけかなとも思う。

 

そうでない「フツー」の人たちは覚悟とのバランス判断が必要になるが、ただ、たとえば病気のある人、障害のある人と付き合い、友達であることがマイナスに働くなら哀しいかなとも思う。そこら辺は知りたいところだ。ボランティアとかいいこと?すればスコア上がるらしいとも聞いたことあるのだが。ちょっと欧米のボランティアや寄付ってもんと日本でのそれとは違いがあるからどうなのか。

 

ただ、もっぱら経済的な観点から人間のあらゆるその他の要素も勘案し参入しているってことを理解しないと、やみくもに「判定されることが不愉快」とかこの時代に言っても仕方ない。

また、「本来は」とか馬鹿なこと言っても仕方ない。

その人の人柄の本質やもともとどういう人とか、この観点ではどうでもよくて、ある意味確信犯的に「表面的行動」で人を判定することにしているというのは、欧米的でなかなかよいところだと思う。

日本は過剰に「本音は?」とか人の内心まで突っ込んで、忖度しようとする気色悪い社会だ。 自分が他者からはこのように見てほしいと決心して表面的行動(寄付とかでも)を行えば、その「真意」みたいなことを馬鹿みたいに突っ込まないでも、表面よいことをしたら、「よいことをした」という行為レベルで了解すればよい。表面と表面で付き合うからよいので、他民族、多様化してきたらそれしか手がないのだから(文化の違う人が本音で?何を考えているかなんかよけいに分からない)、行動、行いレベルで良し悪しを判定していかざるを得ないし、それでよい。あくまで表向きよく振る舞おうと決意している人は信用する。それでよいではないか。確率的に真っ当だ。

 

だから常に人をあからさまにだまそうとするような某首相は信用度ゼロ、国際的に。それでいいだろう。

 

 

 

 

ふしぎな

Yahooニュース と言っても、評論家個人が投稿しているもののようだが、

TY大学の学生のことが話題になっていた。

 

なんでも当大学のT教授について批判的なチラシをまいていたというのが概要のようだ。わたしは事実確認はできていない。 TY大学は日に3回くらい掃除をするので

チラシなんてそこいら辺に落ちていることはないのだ。その点、となりまち本郷のT大とは違う。

 

だから不明なことを前提に「もしネットで書かれているチラシや看板?が本物の事実であり、特定の1人の学生をそれを配布していた」のが事実としたらというカッコつきで論じる。

 

まず、名指しされた当のT教授のことはおいておく。あとでも述べるが、学生をむやみに排除してはいけなのと同様の理屈で安易に大学教員を排除してはいけないし、その主張が特定の人々にとって不愉快なものであってもその人が「授業をしてはいけない」ということにはならないからだ。そうなったらまさに返す刀で言論の自由が奪われてしまう。それよりも「議論」すればよいのだ。大学は議論の場なのだから。

 

さて、ちまたで、学生があたかも処分されたかのごとく、ツイッターで炎上し、この大学が暴挙を行う大学であるかのように非難する向きもすでにある。

 

冷静に順をおって考えるならば、学生が何をしたってその場で特に処分されるわけでない。その点、おそらく事実関係が完全に間違っているものと思われる。つまり誤報が大々的にリツイートされたりしているわけで、ある意味実にツイッターらしいことだ。

 

処分の権限は教授会にあり、ここではおよそ月に一度しか教授会は開催されない。試験時期だからちょっと回数が増えることもあるが。

 

だから、かつての学生の犯罪的不祥事でさえも、処分決定まで3か月くらいかかっている。とりわけ他学部の教授会にそれが知らされるのはさらに遅れるケースもあるかもしれない。ちゃんと民主主義的な手続きを経ているからだ。

 

まぁもしかしたらもしかしたら、可哀そうかもしれない学生さんにとっては(普通)、そんな大学の仕組みや機構は見えないから、ひとりの職員に声をかけられて小部屋に案内されて叱責を受けたら、それが「大学全体の態度」と考えてしまうかもしれない。

 

仮にたとえば、「そんなこと続けていたら退学になるかもしれないぞ!」とか強く言われたら、「大学から退学の警告を受けた」と受け止めてしまうかもしれない。

 

しかし、しかし、「退学の警告」なんてものはそもそも公式に存在しないし、注意や譴責、警告、休学措置、退学措置などのいわゆる処罰的な決定は、当該学生が所属する教授会で審議の上、決定され、学生が思う以上にこの大学は学部ごとにたこつぼ的に審議、処置がなされるから(大きな大学ではそれが当たり前で、別に悪いことでもない)、全体の意思決定に近いことは、全学の学部長・研究科長会議で情報共有され、検討されるのだ。各学部での審議結果がそこにあがってそこで最終的に決定がなされたりする。あまり多数決でやったりせずに粘り強く全会一致になるように話し合う傾向がある。

 

さらに、私立大学はそうしたいわゆる教学側の会議と別に、理事や評議員という法人側の存在、役職があり、理事会という別組織が大学運営事項について審議し、方針などを決定している。土地の取得や新学部の設立など財務的な要素が関係する議事は最終的に法人の承認が得られないと動かないし、法人側から発議されることがある。どこの私大組織でもよく見かけるものだ。 大学によっては理事長と学長が同一人物で一致して事実上、あまり教学側の会議をしないところがあると側聞するが、ここでは一応別々に会議が常にもたれている。まぁ健全な方だ。

 

だから、何か学生が行動したからといって、すぐどうかなるわけではないし、言われているのは正規な「処分」でもないから、メディアは知りたければちゃんと取材すべきだ。あるいは、正式な処分があってから話題にしないと、何を論じたらいいかさえわかない。

 

ツイッターでは、東洋大学教員はみんな黙視しているのか!みたいな煽りもあるけど、公的にまだ何も起こっていなければ、審議もされていなければ、仮に「反対!」みたいなことがあったとしても、反対もしようがない。それに前提はどういう事実関係かだ。言われていることが事実だとしてもそれが何回か繰り返されたのか、以前注意を受けていたのにまた繰り返したのか、校内で大声で叫んでいたのか、今試験期間だが、試験実施中に教室に聞こえるように大声で叫んでいたのか、とかこうした細部が重要で、事実が認定されないとどうしようもない。

 

人は大学においてももちろん思想内容や主張内容で裁かれたりしないが、一応校則ではタテカン禁止であるから、それも試験時間内の静粛を破ったり、通行を妨害して、マイクなど音量のあがる機器、あるいは大きな声で叫んでいたら、処分ではなく、まずは職員が普通に注意しにいくと思う。もちろん注意=退学であったりはしない。

 

おそらく学生課の職員が来たのだろう。キャンパスは学生数に比すと狭小だから、教室棟からすごく離れた学生エリア、たとえば学生会館や生協だけがあるような駒場でみられるようなエリアがここにあるわけではなく、どこにも教室があるから難しい。

正門でやっていたら入試課が、6号館でやっていたら学生課が、8号館入口でやっていたら広報課がそれぞれ1階にあるから、すぐになんだなんだとかけつけてくるだろう。

するとまぁやっている方も何が起こるか予測できる確信犯なのかなぁとも思われる。自然に想像して、むしろ初めからネット炎上ねらいなのかもともこの時代だから思われる。それで仮想敵を炎上によってなんらかのダメージを与えようとする作戦とか。

想像だから安易なことは言えないが、そう考えないと授業が全部終わった今時期に改めて「授業をするな」という授業担当を否定するような文言の意味がわからない。言いたければ学期が始まっていく10月に言えばいいだろう。

 

もし事実だとしたら、わたしの個人的見解としては、まず討論会でもよびかけるのがよい方法だと思う。まじめに議論したいのならば。 教授陣のなかから反リバタリアン的な主張をされている経済学部の先生でもつかまえて相談して、公開討論会でも学園祭で開催したらおもしろかろう。

 

もしも今までそういう試みを誰かにつぶされてきた経緯があるのだとしたら、また広く情報を勘案しないといけないが、そういう試みが全くなしでいきなり自分の敵認定の人をあしざまに批判するなら、目的は討論や議論によって真実や正解を見出そうとするアカデミックな大学の志向性とは異なる「とにかく敵をやっつけてダメージを与えたい」という社会心理学で言えば、意図的な「攻撃行動」のひとつの発露になるわけで、衆目のなか攻撃行動という行動を確信的に演じるならばそれはそれなりの覚悟があるのだろう。攻撃行動はいきすぎると当然、法に触れるし、発言やチラシも表現方法によっては名誉棄損になるからだ。チラシという文書で公に配布する際にはそれはよく注意して、事実から逸脱しないように極力注意をしないといけない。問われればちゃんとエビデンスのある情報に基づいて、いいかげんな嫌疑をかけて誇大に語るとまずい結果を呼び、それは社会運動論的に述べてもあまり賢いやり方ではない。

 

ただ、さきほど挙げたようにもし始めからネットでの炎上ねらいならそういったやり口もあるのかもしれない。

 

ここからはごくごく個人的な印象だが、事実なら きれくはないがある意味よくできたチラシであるから、ふつうに考えて、一人の作業ではないなという直観だ。長い間ここの大学生を見ていての直観だ。指導や相談がある。それは悪いことでも犯罪でもないが、いざとなったらそれは明らかにしてフェアに発言してほしい。無垢で素朴な大学生が突然ある日、義憤にかられて一人の作業でチラシ等を作成してある日街頭演説を始めたなどとしらを切るような、人をだますようなウソは言わないでほしいなぁという1点だけだ。ホント社会運動論として、こういうやり口はあまり有効でないと思うぞ。

そして、授業するなとか、他者の口を封じようという志向性は、たとえその人の夢見る理想的な社会ができあがりそうになったとしても、それはジャコバン的なやり口で、必ず気にくわないことをいう他者の口を封じようとする弾圧につながり、別の人権抑圧につながる方向性を持つ。 歴史の教訓を知るべきだろう。

 基本的な対話を拒絶する方向性からは広い国民的支持は得られないものだ。

 

そして大学という場はそういう経済思想をもとうが、その議論が可能な場であり、

何か過去の間違いで弁明聞きたい、謝罪をしてほしいと思うなら、まずそれを申し入れないと始まらない。街頭で叫ぶことはてっとりばやい方法でもなく、まずは文書で問い合わせや申し入れをするべきだろう。そして、学生たちは、左からも右からも広く講義を通して話を聞き、議論し、自分たち自身の考えを主体的に醸成していく場が大学なのだろうと思う。多様な考えを語る多様な教員がいてもいいのではと。

 

ただ、おまけで言えば、こうした炎上の危機管理としては人事もそういった目や予測はもっておいた方が組織運営上は今後必要じゃないかなと思う。 昔から危機管理については、ちょっと弱いところがあるなぁとは前からの私の印象である(実証的な経験がある)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

雑感:簡単なからくり

利益誘導のからくり

 

これまでこんな簡単なこと、わざわざ書く必要もないと思っていて、たぶんわたしのこれ読んでいそうなものの分かった知識水準高そうな人には届ける必要もないメッセージかと思うのだが、一度書いておきたい。

 

今日もツイッターを眺めていて、政府が進める消費税導入に対する減税、還元的政策のひとつとしてのキャッシュレス支払いでのポイント還元について、そこにつけた予算2800億のうち、3割くらいが「開発費」として使われるらしいということを指して「バカなんじゃないか」というつぶやきを見た。

 

しばしば、こうした政府の政策の矛盾や予算の無駄使いについて「バカなんじゃないか」と(まるで)無駄さに気づいていないかのように(本気でないかもしれないが)呆れたり、揶揄したりするメッセージもあるわけだが、そんなことつぶやいても言い募って叫んだとしても何も変わらない。

 

これは確信犯的な利益誘導だからだ。

 

このたびの政府でものすごくあからさまに一貫しているのは、無名の庶民、市民に金を配るのは極力やりたくない、自分たちの知り合い、得になる筋の方に金を分配したいというやり方だ。

 

明瞭な話、森友の最初だってかつては仲良くしていた知り合いに、国有地を安く譲るということで、要するに簡単な金の流れから言えば、国民の税金→政権関係者の懐 という公金の私物化とひとことで言えば全部が説明されるすべてが一貫しているようなことばかり。

 

昔は派閥政治で派閥間の競争に自民党内で勝っていかなければならなくて、昔の経世会のようにだから何が何でも選挙で仲間を当選させつつ力を示しさらに当選者を派閥に引き入れ数を増やす戦略のように、その実施には資金が必要だった。

 

今もある程度これはあるだろうけど、最近明瞭になってきたのは、ポピュリズム政治で勝っていくために電通はじめあらゆる広告やネット発言者への謝礼、肩を持たせる芸能人、テレビ人、コメンテーター等要するに「メディア対策」にいくら金があってもあり過ぎということはなく、昔現ナマで票を買っていたのをメディア経由で金で票を買う作業をしているのだ。

これが非常に有効に働いているので、本当に資金はいくらあってもよいし、応援団はいくらでもあっていい。

 

庶民は浮動票であって直接相手にはしないが、メディアを通して影響を与える。その費用は惜しまないから金を出すもとになる大企業や電通など儲けさせる構造をつくってその「おかげ」で工作をする。

実際の金のやりとりもあるのかもしれないが、特に電通だとオリンピック誘致、利権の受け渡しをすればそれだけで十分儲かるから、御用とあらばいまさらそこで金を授受しなくても政権のために働いてくれる。

大企業も安い賃金で労働者を働かせることができる法案を通してくれれば献金を惜しまない(ある程度)。

 

昔から自治体でもなんでも年度末に金が余ったら決して庶民に還元するのではなく、道路工事をする。そうすれば建築業者が潤うからだ。

(昔はケインズ的に景気効果を信じていたかもしれないが、いまどき信じてやっているやつなど誰もいないだろう)

 

だからポイント還元だって、要するに「雰囲気づくり」だけで景気がそれほど沈まなければラッキーと思っているわけで、政権は庶民に金を私よりもシステム業者(関係のある)に金を渡したいだけ。

 

沖縄の辺野古の問題も実際に米軍がそれを必要とはしていないのだから、建築業者に金を払いたいだけで工事をする。

 

大学無償化の方向だって、ただで配るのではなく、産業界や官庁の人員の天下り先を大学内に確保する構造を永久化するためにやっている。

 

だから政策をやっている方、官僚は政治家はそれほどバカってわけではない。少なくともそこら辺の庶民よりは賢くて、自分たちに得になることを合理的にやっているだけだ。

 

権力を維持するために→選挙で勝つために→メディアや周辺の人に圧力をかけたり、金を配ったりするために→利益誘導になる政策を進める

 

たいへんに合理的だ。

 

加計学園だって、関係者に補助金が渡るように、儲かる(つぶれない)ように政策を進めるということだし、オリンピックも万博も昔ながらに建設業者や広告業者、さまざまなイベントが稼ぎ場所になる業者のためにやっているので国民のためにやっているわけではない。

 

だから今、政府の行動を「国民のためにならない」「ひとりひとりの庶民にとっては得にならない」と指摘するのは当たり前で今更で、だからと言って言わないでいると損であるから、もっと有効な方向で訴訟を起こすとか、行政訴訟とかいろいろやればいいのだろうが、最終的に最高裁判事を人事で牛耳っているので裁判で政府が負けることも絶対にない。やりたい放題だ。ここまでかなりやりたい放題にやってきてまだ政権は倒れないし、支持率もそこそこだからある意味ますます自信を持って、もうあからさまにばればれでもやりたい放題という勢いなのだろう。

 

支持率が本当かどうか分からないがある程度支持されているのも本当だろう。そのことについては以前いろいろ(前のブログで)書いたから今更繰り返さないがメディア効果も貢献しているのだろう。

 

教育、福祉予算が投じられないのは、特段そこに有効な関係者がいないからだ(いるところには投じられている)。大学の理事長が全員今の政権の関係者になり替われば、もしかしたら文教予算も増えるかもしれない(笑)。今の政権の男女差別体質を考えれば、要するに政権から見て「おんなこども」とかにつける予算はもったいない(今回幼保無償化するが、ずっと反対していたわけだ)。これだって本当は、そんな使い方するよりは、預ける場所を得られていない待機組には何のメリットにもならないのだから、むしろこども園を増やしたり、保育士の給与を上げたりする方向に使う方が国家運営としてはまともなやり方だが、それは「自分たちの利益にはならない」からだ。だからしない。

 

どんな仕事も給与水準を押し上げたりしないで、外国人労働者を入れて安く働かせる、賃金水準をあくまで低く抑えて保つ、これが企業全般の(愚かな)願いだから(だから日本の労働生産性が高まらない)、こうして企業に得させたり、法人税を下げたりすることで企業の要望、経団連の要望にこたえて応援をいただく。保育士を応援したってそれで選挙を勝てるわけではない(と思っているというか選挙基盤をそこには置かないのが自民党だと定義上も言える)。

 

どちらかと言えば、こうした政権や得する人たちの群れのなかに近い、我が同窓生たちは同窓会でそうした利益誘導を実際喜んでいるし、確信的にそうした政策を支持している。これも明白な証拠である。官僚はばかではない。ただ残念なのは出世への有効さ(自身の地位、名誉、給与)と引き換えに長期展望で言えば日本にとって自滅的な政策もたくさん放たなければならない状況になっている。 水道の民営化可能性についてもそうだし、働き方だって外国人労働者問題だって将来への軟着陸や準備としては悪手であること間違いない。

 

しかし、そこを真っ当なことを言って反対する官僚は完全に左遷されていくわけだから権力とはものすごいものだ。

 

正直帰国してそろそろ政権は倒れるのではと思っていたのに、意外に長続きするものだから、なんだかいやな感じで今年の同窓会は欠席だ。なんかこの国の今の下卑た、金儲けだけの卑しい風潮のなかではこちとらの居場所はない。精神だけで霞を食っては生きてはいけないけど、かろうじて食べる物がある程度で、わたしはいい。それで十分。他人の不幸にあぐらをかくことは好きではない。

 

自分はそうした心持ちをずっと持っているが、近頃の社会支配志向性を見ていると、やはり上層の空気はそうした振る舞いを正当化する勝者のおごった在り方に臆することなく居座る傾向が増しているような気はする。

 

格差と秩序はトレードオフの引き換えだと(実はそうではないが)、脅せば、近頃の秩序大好き、不安野郎たちはどんなに変なことをしても「安定政権」とやらを支持することが自分たちの安全と強く結びついているのだと錯覚している。

 

なんて汚らしい世の中になってきてしまったのだろうか。

 

昔の原岡一馬先生の態度の論文を見ていたら、「当たり前の議論のネタのひとつ」として原水爆実験に対する日本の反対声明みたいのがあって「ああ時代だなぁ」と思った。今なら反対の反対で、日本の核武装のために日本も実験したいと言い出すやからがそれなりに多くいるのだろう。そしていつまでも核技術者の養成ということから原発廃炉できないのだ。 

 

こうした日本国の運営をどうしたら変えていけるのだろうか。