tsuyukusa's blog

心理学あたりのあれやこれや

信用

叔母が亡くなったので葬儀に帰省した。

20歳の頃のブロマイド(映画女優だった)が遺影になっていた。

それはいい。

 

で、夕方実家に戻って朝日放送(ABC)かなんか見ていたら、信用スコアの話をしていた。全国ネットで同じかは分からない。

わたしもよく分かっているわけではないが・・・。

中国のネット決済でも関係している話はやはりテレビで見たことがある。放送では諸外国ではよく導入されていて、日本は信用スコア元年だと言っている。関西弁のコメンテーターが抵抗を示していたからやはり関西ローカル放送かも。

 

きっと「信用」なんて人間っぽいキーワードを聴くと、多くの日本の人たちは、またまた「全人格」が判定されるように勘違いするのだろう。目的主義的にヒューリスティックに情報を使うという発想がどうしてもとりにくいのだろうな。

 

わたしも気分よく大賛成とか、積極導入したいとかでは全然ないけど、保険やクレジットや銀行の世界で、「信用」判断は元々されていたし、むしろ日本ではそれがちゃんとされていなくて、これまでいい加減だったことが修正される余波が強いのだろう。

 

つまり、関係流動性の高い国、地域では初めから個々の人間が相手の信用判断をしている。人を信用という観点から見るのに慣れているし、取引上はそれが当たり前だ。

 

いみじくもコメンテーターが言っていたが、勤めている会社とか、そして対面で会うことで・・・とか。しかし、関係流動性の低い「安心社会」では実は個人的な信用なんて実は判定なんかしていなくて、何度も会って「知っている人だから」という単純な理由でだんだんと信用するという底抜けシステムだ。

 

信用スコアでは、個人の人間としての行動や実績が評価される。それはこれまでの日本の「安心」とは違うシステムなのだな。

 

本来、日本の銀行もそうやって相手を見極めればいいのに、さぼってきて見る目がない。節穴だ。それで担保主義で、担保で金を融資するしかない。これが日本の銀行の決定的にダメなところで、生産性の低さの原因だ。人間の信用で大胆に貸すことができないから、大きく儲けることもできない。ハイリターンが得られないのだ。国内の有望なベンチャーアメリカとかに皆かっさらわれる。日本のアホ銀行が貸す判断ができないからだ。

 

そういう点では“グローバル標準”では、個々人の人間を見て信用を決めるスコア方式なのだろう。

 

銀行の立場から見れば、差別かもしれないことを限定的に、どういう人と付き合っているかとかのリスクやなんやかや含めて判断するのは当たり前と言えるし、現実的に住んでいる地域や人種や趣味や健康などあらゆることが確率的に参入され、AIがそれらを扱えば自動的に適宜重みづけられたような形で、その人のクレジット判断がされるというものだろう。

 

個人的によい人(日本の場合はただいつもよく付き合う人だったりするが)とか、そういうことよりもビジネス的に信用力ということに寄与する変数が重要になる。悪い人間と付き合っているとだまされる蓋然性も高まるし、金を貸してくれと頼まれて踏み倒されることもあるだろう。覚悟して付き合わないと仕方ない。あえて差別なく、広い交友関係を持てば、信用スコアなんてくそくらえって感じでやればいいだけかなとも思う。

 

そうでない「フツー」の人たちは覚悟とのバランス判断が必要になるが、ただ、たとえば病気のある人、障害のある人と付き合い、友達であることがマイナスに働くなら哀しいかなとも思う。そこら辺は知りたいところだ。ボランティアとかいいこと?すればスコア上がるらしいとも聞いたことあるのだが。ちょっと欧米のボランティアや寄付ってもんと日本でのそれとは違いがあるからどうなのか。

 

ただ、もっぱら経済的な観点から人間のあらゆるその他の要素も勘案し参入しているってことを理解しないと、やみくもに「判定されることが不愉快」とかこの時代に言っても仕方ない。

また、「本来は」とか馬鹿なこと言っても仕方ない。

その人の人柄の本質やもともとどういう人とか、この観点ではどうでもよくて、ある意味確信犯的に「表面的行動」で人を判定することにしているというのは、欧米的でなかなかよいところだと思う。

日本は過剰に「本音は?」とか人の内心まで突っ込んで、忖度しようとする気色悪い社会だ。 自分が他者からはこのように見てほしいと決心して表面的行動(寄付とかでも)を行えば、その「真意」みたいなことを馬鹿みたいに突っ込まないでも、表面よいことをしたら、「よいことをした」という行為レベルで了解すればよい。表面と表面で付き合うからよいので、他民族、多様化してきたらそれしか手がないのだから(文化の違う人が本音で?何を考えているかなんかよけいに分からない)、行動、行いレベルで良し悪しを判定していかざるを得ないし、それでよい。あくまで表向きよく振る舞おうと決意している人は信用する。それでよいではないか。確率的に真っ当だ。

 

だから常に人をあからさまにだまそうとするような某首相は信用度ゼロ、国際的に。それでいいだろう。