tsuyukusa's blog

心理学あたりのあれやこれや

なぜいつまでも・・・

久しぶりに書く。この間に新型コロナウィルス問題が爆発。

 

政治のことは気になる。

ツイッターで、

自己申告で世帯ごとに10万円 足りなすぎるうえに 本当に必要人には届かない可能性も。 弱っている本当に支援が必要人ほど援助希求が難しいということを政権の人は知らないんだろう。 「生命や弱者に対する共感絶望までの欠如」 ひとりひとりに20万くらい税金返せ。

」(郡司真子)

 

こういう発言というか叫びを聞くと、いつも思う。

だったらなぜこの政権なのかと。

 

以前のZatsu_tenブログでもさんざ書いたことだが、政治と人間の基本的な仕組みがなぜ広く通じないのか。

 

民主主義となったときに、既得権益のある者はどうふるまうか。共感は全くしないが、シミュレーションして想像することが有効だ。この特権を子々孫々維持して伝えたいと思う者たちがある程度出現するだろう。

するとそれを守ろうとするシステムをつくる。

そして、すでに資金があるので、より容易にその意図を実現する政党をつくる。

資金もあるから人も集まってくる。そこに利益維持共同体が生まれる。

 

日本の保守政党はあまり理念がないから、結局、より保守側というのは、この既得権益維持集団となる可能性が高い。必然的に産業界、特に従来の大企業など経団連系の支持と人的交流をもつことになる。

古い方法では、資金提供と利益供与という一体化した政策の推進となる。

 

つまり、原理的にこのタイプの保守政党は、そもそも庶民への共感よりも、既得権益の利益代表となる。だから、庶民がこうした政党を支持すること自体が大きな矛盾となるのだ。「共感のなさ」は構造的な問題で、今はさらに首相たちの個人的資質もそれを助長しているかもしれないが、所詮そもそも庶民の苦しみに対処する政党ではない。それが設立の趣旨のようなもの、存在意義なのだからいまさら驚くのがおかしいってものだ。

 

それでも戦後ここまで常に、政権を得られてきたのは、庶民にまでそれにたかる構造があったからだろう。地方議員や地方の企業で、補助金を得たいもの、それで得ができるものが寄ってくる。悲しいことにだいたい金があるところには大勢寄ってくる人がいるものらしい。

 

これらが地方の保守地盤を形成し、というかそうした保守地盤を基礎にして、積み上げた要望の集積体のように、保守政党が形成され、発達していくのだろうが。

 

労使や組合というと、今の日本ではすぐ古いと退けられるが、実際、マルクスの描いたその構図は全く衰えず、健全に世界を説明している。理論の問題よりも、運動の失敗の方が重大だ。

 

今では、本来の意味の資本家ではないが、経営陣としてある者と、一介の労働者に過ぎないものの分断(入れ替わりはあるが)が問題。企業が利益をあげたとき、どの程度を内部留保するか役員給与をあげるか、社員の給与をあげるか、相変わらずこのシンプルで絶対的に重要な問題は、労使関係で考えるしかない。しかしほぼ労働組合の力は弱体化した。

 

円安で株高に誘導しても、大きな証券資産をもっている者しか豊かにならない。給与アップしないといつまでも庶民層には利益が行き届かない。このシンプルな対立の経営側に政権は今あるわけだから。

 

だから、庶民側に立つ政党を育て、大切にし、少々失敗しても育成を図ることが最終的に庶民層の利益になるはずなのに、結局ろくに一個もそれを日本ではつくることに成功しなかった。一度の民主党政権。それでもマシだったことは、今の新型コロナ問題であぶり出されている。少なくともまじめに取り組むのと真剣さに欠く取り組み、どうあっても利益団体との共栄に目が奪われる政権のあり方だと明白に「どちらがマシだったのか」の答えは出ている。

 

なぜそれでも多くの人は現政権党に票を入れるのか。実際多くではなく、完全比例制にすればもっと拮抗するはずだが、小選挙区制によって莫大な差になっていることはわかる。それにしても、・・・といつも思うが、何のための票を投じているのか。そして、また棄権も多いわけだから、政権選択を放棄している。

 

新型コロナ問題など危機が発生したときだけ、不祥事が生じたときだけ、思い出したように、単発的批難が出てはくるが、しばらくしては忘れ・・・の繰り返しだ。面倒はきらいでしょうか。自分がより幸せになるよりも、不幸の秩序の方が好きでしょうか。常にそれは問うていきたい。