tsuyukusa's blog

心理学あたりのあれやこれや

秘密保護法案

ちょっと世の中のことを・・.

 

今更のメディアの対応にはウンザリする感じ。

タカ派で何をしたいかが明白である安倍をもちあげて,この間の参院選の頃には,景気を回復させている安倍政権に文句いうのは非国民みたいな雰囲気を醸成していたのも民主党政権がダメダメだったと強調していたのもメディアでなかったのか。

 

いわば自民党の大勝ちを後押ししたようなメディアはまず自分たちの不明そしてマスコミの取材の制限にも関わるかもしれないこの法案の成立(見込み)について,まず自己反省し,懺悔するところからものを言う必要があるのではないか。

 

原発の問題だって,建設当時反対運動していた人はいた。確かにそういった声はあった。

 

正しいときに,正しい意見を言っているのは,顧みられず,ことがいざ問題になってからようやく国会前でのデモが起こる。なんと言っても対応が遅すぎ。敢えていって愚かすぎる。だからといって法案が成立していいわけはないが,そもそもここまで安倍に調子づかせてきたのは一体この国のなかの誰なのか?

 

要するに,国民主権,民主主義と地に足つかない景気をひきかえにしたのだ。歴史的にこの取り引きをなした愚かな2013年というのは,ばかな民意を示した歴史的記憶として永遠にわたしたちは胸に留めておくべきであるが,「忘れっぽい」日本国民はどれだけ覚えていられるときが来るだろうか。

 

結局,関係流動性の箇所で問題になっているように,「周りの雰囲気に流されて」決定するストラテジーと,冷静に分析的に思考するストラテジーと今後どちらを政治や政策,そして教育の世界で醸成していくのか,その決意がなければ,未来に渡って何も変わることはないだろう。腹立たしいことに・・・・。

 

わたし自身にできることは,教育のなかでクリティカル・シンキング,熟慮思考の価値を時代の流れと合わせて日々説明し続けていく粘り強い努力である。

 

人の考え方はなかなか変わらない。新しい考え方を身につけた若い人たちに大きく世代代わりしたときにはじめて「変化」が実感されるのだろう。

 

関係流動性と文化差

地理的、地勢的、民族的要因などから関係流動性が低くなりがちな地域と、高い地域があります。関係流動性とはいやな人間関係、社会関係があったらそれを離脱して他の集団へ加入する容易さ、そのような関係変化の起こりやすさを示す概念です。他集団と接触機会も多く、民族混合、転職などが起こりやすいかと言った点に反映されます。おおむね日本はとりわけ近代まで関係流動性の低い地域であり(中国、韓国からの「入り」は多いが「出」=出っぱなしは少ない、出の方が重要)、アメリカ社会は極端に関係流動性の高い社会です(補注 本日の朝日新聞のオピニオン欄にもサンフランシスコでは20年で人口の6割が入れ替わったと語られていました)。国内においても地方はより関係流動性が低く、都市部は関係流動性が高く、近年この傾向は(関係流動性の高まり、転職、離婚など)強まりつつあります。
 
 
さて、関係流動性が低いと生きるために群れに所属している際に村八分など群れから社会的排除されることは致命的で。他の社会集団に再加入しにくいからです。(いじめられても転校しない。なぜなら転校先でも「よそ者」「新参者」としていじめられるコストが予測されるから) すると集団への同調性が高まり、和を保とうという意識の方が強くなります。集団内で割り振られる役割を全うすることが重要であり、目立つ必要もありませんから、高い能力を示すよりも「良い人」であることが集団内で望まれます。関係流動性の低い社会では、メンバーが固定的になりますので、メンバーどうしが見知ったもの同士となり、そういった社会では「悪いこと」をすると代々「後ろ指をさされる」ことになるので、失うもの/得るものコスト・ベネフィットが不利になるので、あえて悪いことはしません。これを「安心社会」と呼びます(山岸俊男)。「人は悪いことをするはずがない。なぜならそんなことをしたらみんなで指弾されてかえって大損だから・・」となります。家に鍵をかける必要もありません。
 
それに対して、異民族に流入、混合が多く、ひとびとの動きがはげしく、多様な選択肢があり、つきあう人を変えていきやすい関係流動性の高い社会では、そこまで集団に律儀に尽くさなくても「イヤなら出て行けばいい」だけです。したがって同調よりも自己主張が優勢になります。個人中心で考え、むしろ所属集団は自分の個として希望や欲求が叶えられるかどうかという観点から所属すべき集団を選別し、自身の能力が発揮しやすい「場」を求めるという発想になります。現在でもアメリカの18歳の大学選びは故郷から離れるケースが多く、アメリカ全土から自身に適した(&成績が該当する選択肢のなかから)大学やコミュニティカレッジを選び、コミュニティカレッジに入学した者の学習したい多くの者がさらに別のユニバーシティに編入学します。変動性は開拓時代ならばなおさらです。
 
関係流動性の高い社会では周りは知らない人だらけという時をしばしば経験します。したがって「安心」できません。しかし、そこから積極的に人間関係を展開していくと得られる利得が増えます(取引機会の拡大)。利得を増やすには取引相手の選別が重要なので、「信用できる相手」かどうか見極める目を養うことが肝要です。アメリカ人の方が顔から信用のできそうな人を選び取るヒット率が日本人より高いという実験結果があります。このような社会を「信頼社会」と呼びます。信頼は無条件ではないので、信賞必罰であり、裏切りは報復されます。一方関係流動性が高いので「欺して逃げる」ことも一定割合可能です。信頼してもらいたい立場から言うと、「あなたはわたしと相互作用するとよいことがありますよ。わたしはこれだけあなたの役に立ちます。こういったことができますし、わたしは高い能力をもっていますよ」という就活みたいなことが日常になります。自己宣伝社会です。したがって「高い能力」を持つことが推奨、奨励されることになり、短期的な関係で変動していくので、人間関係は二の次であるし、取引上は取引関係でしか関係を求めないので私生活は無関係、無干渉となりやすく、人柄よりも求める仕事ができるかどうかが肝要になります(友人形成とは求める特質が異なります)。
 
 
(なお、「欧」「米」を一律に扱いやすいですが、米と欧では異なり、人に対する「一般的信頼尺度」で測定するとアメリカ人の値はやたら高いのが特徴で、日本は低いですが、ヨーロッパもそう高くなかったりします。「一般的信頼」=見ず知らずの人をデフォルトでどれくらい信頼するかってことなので、信頼の域に達するまでヨーロッパの方が「敷居」が高く、アメリカはまず信頼するところから始めちゃう(話が早いわけですね)という違いがあります)
 
このような点から関係流動性の低い社会では自己非難や自己卑下的自己呈示、関係流動性の高い社会では自己高揚的自己呈示がメジャーになります。
 
日本は現在、関係流動性の高い方向に変化していますから、徐々に「自己高揚的自己呈示」が評価される方法に変化していくと予想されます。仕事を請け負うのに、コネや知り合いであるといった要素よりも「能力が高く保証されているか」が重要な点になっていくわけで、現に外資系やトレーダーの引き抜きではすでにそういった採用が顕著です。
 
おまけのことをいうと関係流動性が低いと「失地回復」「やり直し」が難しいので一度失敗すると落ちていく、「すべり台社会」となりやすく、犯罪者の更生、精神障害者の社会受け入れも困難です。いじめからの離脱もより難しいタスクとなります。特定の集団の「社会的排除」の効き目が強く働くことになります。

自意識

私的自意識と公的自意識は一応独立です。どちらかが高い=もう一方が低いわけではありません。

 

だから両方高いんですよ~というコメシもありましたが、それはあります。両方低いと言っていた人もいます。

 

別に心理専攻でよくあるタイプは両方高くて、内面をみつめる自省傾向も強い一方、人目を気にしたり、周囲を気にしたりするという人はいくらもいます。臨床心理学ではそれを乗り越えていく工夫と努力が求められます。人目を気にする人にセラピーしてもらいたくありませんよね。

自殺

日本社会の関係志向性が自殺者の多さにつながるのか?という指摘、質問がいくつもありました。

 

そうです。

 

先進国中日本はきわめて自殺率の高い社会でそういった意味で幸福度の低い社会です。

みんな一所懸命やっていて、そう悪気もなくやっているのに幸福が低い。つまりそれは一人一人の心がけの問題ではなく、社会のシステムであるということです。

 

指摘したようにまず減点主義ということがあります。防止焦点的で減点主義であれば、褒められる機会よりもけなされる機会の方が人生上圧倒的に多くなります。楽しくないです。けなされることが多いと学習上もけなされることを予期する予期不安が生じやすくなりますし、そういった懸念、心配が遺伝子上の傾向性と相俟って社会的に広がる。

 

失敗や欠点をつつかれることの懸念。何も変わらなく起こらなく無難が一番となるに決まっています。他者から頭が飛び出ない、「ふつー」であること、そういった視点で周りを見回して空気を読むわけです。ストレスフルです。

 

わたしたち教員の世界でもサバティカルで海外に行って帰ってくると異口同音に、海外の方がさばさばしていて暮らしやすい。日本は行き詰まるよう。と言います。

 

もちろん常勤的な仕事ではなくゲスト的な義務の薄さで一層自由な立場でサバティカルは過ごしやすいと言えますが、長年アメリカに住んで帰国してきた人でも、日本の「窮屈さ」はよく指摘されるところです。常に人の目を意識して配慮疲れしないといけない。いい意味で「放っておいて」くれない。

 

人のことは人のこと、ある意味人が何をしていても気にしない。

こういった心情が広がっていかないと、自殺高率社会からは抜け出せないと思います。

 

もちろんその一方で経済的側面での支援も重要ですので、安心して暮らせる社会保障、「失敗しても許される」セーフティネット、やり直しが効くシステムなど制度面でも「追い詰められる」ことを防ぐ工夫はいくらもありますから、そういった点からも自殺を減らす工夫はあると思います。

 

 

 

正直に言ったら許そう

関係流動性の低い社会では成員性は当たり前でメンバーであるからもう信用できるってわけで安心なんですね。そこをちょっと不正をして裏切った人が受け入れられるのに当たって重要なのは顔の見えるメンバーとしてその「心根」「心持ち」です。また同じ集団のメンバーとして一緒に生きるためには、「反省」して「悪かった」と思い、周囲に萎縮して申し訳なさを表明する「人の良さ」「善良」を示すことが何よりも重要です。

 

だから「起こったことの正確な事実は何か?」みたいに科学者の追究するような真実追究にそういった社会では興味を持たないのです。「気持ちが済まないと思っているか」が再びその人と一緒の集団で生きていく大切な要件です。

 

だから罪を認めて潔く謝った方が許されやすい。罪の中身はどうでもいい。そこから責任を明確にすることも不要。謝る態度だけが重要だからです。

 

そうではない世界では「何が起こったかを把握し」それを合理的にみんなでストップできるように「原因を解明し」「再発を防止」することが重要でそのために「事実、真実」の追究に注意が払われます。逆に「どう思っているかはどうでもいい」のできちんと真実が解明されたら、しかるべき責任と罪が責任者に帰せられるわけです。

 

そして日本では本当の意味で再発防止に熱心でないので、何度も繰り返し同じような賄賂、談合、偽装といった相談上のうちわで決められた不正が起こります。関係者(だけ)が納得する集団内でのうらみっこなしのコミュニケーションが重要なので情実や談合が文化的に正当化されてしまう力学が常に働くからです。ウチが得をするときにソトが損をする。そのソトの損に注意が常に迂闊なんですね。

ハンディキャップ

「ずっとマジメに生きてきた人よりも、ヤンキーだったのに更正した人の方が目立つし賞賛されるとかもこれ(セルフ・ハンディキャッピング)ですかね?」

 

「自分の辛い話を人にしたがるのは、そんな状況下においてもこんな元気なんだよ、もしくは大変でしょ?でもがんばってるでしょ?とアピールしたいからなんだなあと改めて感じました」

 

ある意味、セルフ・ハンディキャッピングとも言えるかもしれませんが、後者はそれを宣伝するなかで、配偶者選択で説明したハンディキャップ原理を体現しているともいえます。両者は異なる概念でまぜこぜにすると困るのですが、ある種のセルフ・ハンディキャッピングが実質的にその後、よい遂行を伴うと割増原理でシグナリングになり得ることもあります。でも通常「シグナリング」はそれ自体すごくできることがムダなこと、あるいは過剰なことであるので、そこにあらかじめ不利な条件、その遂行の妨害要因を強調することは必要ではありません。すでにそのムダなことをすること、できること自体がムダなエネルギー使用であり、生存上マイナス方向に働くハンディとして機能していますので(それ自体そのものがハンディ)、それでも今生きて生存できていてスゴイでしょ!ということです。(エレキギターの早弾きとか)

 

 

 

 

祟り、怨念

最後の話で、死んでから祟られても困るから祀っておこうという話の感想がいろいろあり、追加です。

 

死者の怨念を怖れることはある程度世界的現象で西洋の冒険物語でもときどき出てきます。死者が何かの思いを残していて伝えたいと。 でも恨みでやたらめったら被害を与えることは日本の方が多いです。

 

いわゆる「化けて出る」というやつで、四谷怪談とか。

恨めしや~とかみんなそうですね。だから日本人にとって幽霊は人間だったりして、人間である方がある意味怖い。

 

西洋では映画のゾンビなど死者が元ではありますが、その死者はもう元の人間の思想や意図などなく「ゾンビ化」することで「人間でない」なにものかになっていて、「心がない」わけですね。そういうことによって「心の通じない」「異世界」のものという方が西洋人には怖い。理性に基づく言語的コミュニケーションが成立しないのが怖いのです。

 

だから「エイリアン」的な何かとかあるいはもう生き物かなんかわからないようなネバネバ、ドローっとしたものが侵入してきたり、体内に入ってきて体を突き破ったりがホラーになるわけです。そこに「心」や「人間的要素」はない。ないことが怖い。

 

でも日本は逆に人間らしい恨みがパワーアップして強い力の恨み、すなわち怨霊になることの方が恐ろしいのです。あくまで人間関係志向であり、その裏面として「人間が怖い」のです。